の弟子だから此説を信じて、一切の座を禁じた。九州征伐に行つた時第一に博多に行つて大きな旗を立てゝ「此處座あるべからず」と云ふ號令を出した。是が内地に於ける自由貿易の元祖であります。此説が又外國貿易にも行はるゝやうになつて來ました。是は唯商人が苦痛であるばかりでなく、實驗から行つて自由にした方が天下の爲になると云ふことを考へられたのであります。日本ではどうも學者よりは實行家が先になるやうであります。其頃港へ入れば必ず港で税を取られたのでありますが、數百年の經驗が税を取らないと船が澤山寄る、澤山寄れば港が繁昌すると云ふことを考へて、樂津と云ふことを考へた。樂津と云ふのは税を取らない自由港と云ふ意味です。樂津は即ち自由港であります。それから又市場を立てゝ商賣をする、日本橋にも四日市などゝ云ふ名前が殘つて居る。あれは四日目々々々に市を立てた。今のやうな店を張つて居るのでなく、月に三日目とか四日目に離れた處から其處へ行つて市を開いて商賣をする。其市が大名の狙ひ場所で、市を開くと市へ行つて大名の家來が入用な品物を取上げる、税を出せとか云ふことになる。所が多年の經驗に依つてどうも物を取つたり税を取ると人が集まらぬ。すつぽかして自由にさしたらどうだ。町人もさう言ふから、それを許して見たらどうだと云ふので自由にしたのを名づけて樂市と言つた。所謂フリーマーケツトです。それをやつて見ると、どん/″\人が寄る。成程之に限る。人が澤山寄れば町が潤ふ、町が潤へば大名に税を出すことも出來ると云ふことで、樂津、樂市と云ふムーヴメントがありまして、信長は其樂津、樂市の説を採つて、之を實行してさうして、秀吉が更に之を大成したのであります。偖て秀吉の後に徳川家康が出て來たことは御承知の通りであります。是は又秀吉と同じことで商賣は自由でなければならぬと云ふことを信じて居ります。是が元和二年と云ふと西暦千六百六十年ですから、家康が天下の主人となつて二十年以後でありますが、安南へ商賣に行く彌七郎と云ふ船乘がある、之に對して商賣を差許すチヤーターを與へる。但し此許可を與へるに付ては此事を心得ろと云ふ訓令があります。「凡そ會場の事は、有無を通じて以て人と己れとを利する也、人を損じて自ら益するに非ず、利を共にする者は小と雖も却て大也、利を共にせざる者は大と雖も却て小也異域の我國に於ける風俗原理異なると雖も、天賦の理
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