未だ曾て同じからざるはなし、其同じきを忘れず其異なるを怪しまず、少しも欺くことなかれ、且つ彼之れを知らずと雖も、我れ豈之を知らざらんや、若し他の仁人君子を見れば即ち父師の如くに之を敬ひ、以て其國の禁令を問ひ、其國の風教に隨ひ……」斯う云ふ訓令を授けて居る。イギリス邊りの自由主義と云ふのは、東印度邊りと商賣をして、或る會社が利を專らにする、それに對して吾々も參加したいと云ふのがイギリスの自由貿易の起りでありますが、一國の政府が外國へ出る商人に對して、貿易とは人を損じて己れを利するに非ず、己れを利し併せて他を利するなりと云ふ訓令を與へたのは、恐らく世界の歴史あつて以來家康が初めであると思ふ。此文章を書いたのは林羅山と云ふ漢學者であります。漢學者は親孝行とか何とかばかり言ふかと思ふと、立派な理窟を知つて、其意見が政府の政策となつて現はれると云ふのは、學者も隨分使ひ甲斐のあるものと思ひます。
以上の如く日本はアメリカと國を開いて交はる以前に立派な文明を持つて居つたのです。それがどうして西洋と違つた形になつて來たかと言ふと、是が徳川氏の非常な過失である。今のやうな奴隷經濟から土地經濟、貨幣經濟となつて、經濟上の色々な機構が生れて來て自然に發達して居れば、日本は歐洲と同じ所へ行つて居る筈なのである。然るに徳川氏が關ヶ原の一戰に勝つて、關ヶ原から逃げ散つた所の豐臣氏の家來、之に耶蘇教徒が[#「耶蘇教徒が」は底本では「耶蘇數徒が」]多い。蘇耶教徒は外國へ行つて居るのもある。之と交通して又再び反革命を起しはしないかと云ふ心配から、一切外國へ出ることはならぬ、外國へ行つた者は歸つてはならぬ。外國と商賣することはならぬ。外國との商賣は支那人とオランダ人が來るから、それに許す、斯う云ふことにしたのです。所が日本人は唯座つて支那人が何か買ひに來ると賣る、オランダ人が買ひに來ると賣ると云ふだけである。オランダ人が持つて來たものを、向ふの言値で買ふと云ふだけである。商賣と云ふものは、天下を自由に歩いて高い處に賣り安い處から買つて來るのが商賣であるが、それが出來ないのです。支那人は勝手に日本の物を買出して持つて行く、オランダ人は高い物を賣付けて物を安く買出して行く。是が殆ど三百年間續いた。それで全く自然の状態から日本の經濟機構は後戻りをしなければならぬことになつて、總てが不自然になつて來た。水が
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