と云ふものも外ではない、大日如來は即ち天照皇太神である。現はれる所は違つて居るが元は同じことなんだと云ふ説を唱へ出して、神道と佛教の統一を圖つた。それが數百年經つてから神佛混淆して、神樣の所に佛樣があつたり、佛樣の所に神樣があるやうになつたのですが、今申上げたやうに、東ローマのイソーリアン法王は權力を以て宗教を統一して、反對の宗教を滅してしまひましたが、行基は反對を滅さぬで、反對の方も皆統一してしまつて、天照皇太神は即ち大日如來だと云ふことで、之を統一をしかけた。結果は違ひますが、宗教を統一すると云ふ考は同じことであります。
 それから日本に近年自由貿易と云ふことも唱へられて來ました。斯う云ふ統制時代になつては、自由貿易と云ふことも行詰つたやうでありますが、併しながら自由貿易なるものは世界普通の状態に於ては立派な眞理である。唯各國が墻壁を築いて重税をかける、割當をする、禁止をすると云ふやうなことをするから、自由貿易が行はれないが、世界の形勢が變れば、やはり自由貿易になるであらうと思ひます。其自由貿易と云ふフイロソフイーは吾々は西洋の學者から習つたのでありますが、併しながら學者が説を立てる以前に日本には事實に於て自由貿易はあつたのです。今申上げたやうに、商賣が總て座の專有物になつて、特許を經たる商人でなければ商賣が出來ないと云ふことになつて、流弊甚だしく、京都大津の座の商人は、京都から伊勢へ至る道路を悉く座の商人に取つてしまつた。座の商人の仲間でなければ商品を持つて其處を通過することはならぬ。又座に屬して居らぬ商人があるから、それを通したい場合には、税を納めて荷物を通すと云ふことにして、座が天下を占領してしまつた。日本全國到る處座の組織が立派に成立つて來たのです。其弊害が餘り甚だしいので、座以外の商人が非常に苦痛を訴へ、商賣は自由にして貰ひたいと云ふ聲を出して來たのです。自由貿易とか、政治上の自由とか哲學で申しますが、是では商賣が出來ないから自由に商賣さして呉れと云ふ聲を代表したのは織田信長でありまして、織田信長は唯比叡山を燒討したとか、明智光秀に殘酷なことをしたとか云ふやうなことだけ傳はつて居るが、立派な政治家で、座が天下を專有することは善くない、商人が自由に商賣することは尤もであるから座を禁止してしまへと云ふので、信長の政權の到る處座を皆廢してしまつた。秀吉は信長
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