一種の村若くは町であります。其中で座をやるやうな人間が有力者なのであり口利であり金が使へる。それが中心となつて所謂人民自治、自治してゐながら、實は權力者がやる。上の者がやらないで下の權力者がやつて居る。然るに京都に於てやはり同じ状態で上京下京と云ふものがある。足利時代の中頃に上京と下京とが戰爭をしたことがあります。上京も下京も其中心は何であつたかと言ふと、座の商人が中心で戰爭をした。上京下京は自治體とは今日言ひませぬが、其頃は自治體であり、座がその中心で、それが戰爭せいと言ふと戰爭をすると云ふやうなことで、此點は西洋のギルドと同じことで、而も是は何かと言ふと、ギルドはキリスト教の神に仕へる儀式から是が出來て、向ふのギルドの元は神樣にあるやうに、日本の座の元はやはり神樣から起きて居る。洵に不思議な位一致して居るのであります。斯う云ふ譯ですから、日本の歴史は即ち西洋史と同じく世界史の一部分なのです。違つた所はあるが、共通の所がある。地理學者から聽きますと、世界の地層と云ふものは何萬年前には斯う云ふ土があり、何萬年後に斯う云ふ土があつて、地球を横斷して見ると地層は皆同じことだと、言ふのです。然るに或る處に於て其地層が引つ繰返つて居る。何かと言ふと、それは地震の爲めだと言ふのです。歴史も其通りで歴史の斷面を取つて見ると、西洋も日本も皆共通で、第一は奴隷經濟、第二は土地經濟、第三は貨幣經濟、貨幣經濟の中から、經濟機構が生れて來て、座(ギルド)と云ふものが生れる、同じことである。唯其間に政治上の革命や外國との關係で一種の變動は來て居りますが、歴史の斷面と云ふものは、略※[#二の字点、1−2−22]相似たものであります。
 それから歐羅巴では八世紀の中頃即ち七百二十年頃東ローマのレオ・イソーリアンと云ふ法王が偶像を禁止する法令を發して、他宗を皆悉く滅してしまふと云ふ運動を起した。所謂宗教の規格統一で、スタンダルゼーシヨンをやつた。それから色々殘酷なことが行はれて來ました。然るに日本では略※[#二の字点、1−2−22]同時代に行基と云ふ坊さんが出て來た、是は非常な博學で、偉い人であつた。其頃坊さんは皆朝廷に仕へて紫の着物を着たり爵位を貰つたりして威張つて居つたが、行基だけは朝廷に仕へない。木の下、山の中、野の端を勸化して歩いて佛法を説いて廻つた。是が神佛混淆と云ふことを考へた。佛樣
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