、さういつた場所を搜して見ようといふことになつた。
 しかし、もつと何とかした手がかりがあつたら、ホテルから當つて見た方がよいかも知れないと思ひ、誰かがホテルの名を話してはゐなかつたかと聞くと、或る人がプラットフォーームで荷物の番に當つた婦人に話してゐたホテルの名を小耳に挾んだが、疲れてゐてよく聞いてなかつたのだけれども、Mの字が發音されたやうに記憶するといふ。甚だ心もとない話ではあつたが、電話帳でMの字の初めに附くホテルを調べ出して、オテル・マヂェスティク、マリウス、マルマンデー、モントレー、ド・ラ・メルシ、等、等。それ等を番地と一所に書きつけて搜しかかつたけれども、結局だめだつた。
 翌日ブッファル街の警察署《コンミサー》に出かけて、日本の淑女たちと子供たちの大勢泊まつてるホテルはわからないだらうかと聞いたが、これも要領を得なかつた。最後に、停車場で消え失せたのだから停車場附近をもう一度搜して見ようといふことになり、電車でサン・ヂャンまで行つて見ると、構内のホテルの窓の中に日本人の子供が幾たりものぞいてゐたのですぐ發見した。そこがホテルになつてゐたことは、前にも記したやうに、その時初めて知つたのである。それにしても、オテル・テルミニュのミ[#「ミ」に傍点]が強く響いたといふのも疲勞のせゐだらうと笑つてしまつた。
 私たちはホテルに行つてS君に逢ひ、I夫人にも逢つた。そこで、偶然にもM氏とその家族の人たちにも逢つた。M氏にはシャルトルへ行つた時その車に乘せてもらつたことがあつた。今度は家族の人たちの乘船を見送りに來てるのだが、その車で邦人避難者で車にこまつてる人たちを運んでやつたりしてゐた。尊敬すべき奉仕だ。
 その日も、停車場では出征軍人の見送を幾組も見た。見送といつても細君一人が見送つたり、母一人が見送つたりして、默つて抱擁したり接吻したりするだけで、群集の堵列もなければ喚呼もない。眞情の涙と無言の告別だ。
 その夜、彫刻家の菊池君から電話で、やつと着いたといふ知らせがあつた。翌日逢ふと、作品は全部パリに殘して、汽車に乘れないので大枚四千フランを奮發してハイヤで畫家のM君の家族と二家族で着いたのだといふ。またM氏の家族と一所になつてる若いA夫人にも逢つた。彼女の父(私の一高時代の同窓岩永裕吉君)が亡くなつたことを初めて聞いた。驚きと悲しみで何といつて慰めてよいかわからなかつた。
 柳澤健氏の家族の人たちにも逢つた。一日にパリで別れて以來、鹿島丸の來るのを待つ間、ロワイヤンに一まづ落ちついたが、田舍の警察は日本がまだドイツと組んでるものと思ひ込んで立退を命ぜられたので、ボルドーへ來たのだといふ。(柳澤氏はボルドーから汽車でポルトガルへ行つたさうだ。)しかし幾ら待つても鹿島丸が來ないので、五日の後家族の人たちはまたポルトガルへ立つてしまつた。
 パリでしばしば逢つてゐた若い留學生諸君もボルドーに集まつた。その中でK君は苦心して集めた大事な書物全部と論文をパリに殘して來たのが氣がかりで、まだ鹿島丸の入港しない内だつたから、此の分では何とかして論文だけでも持つて來られるだらうといつて、着いた翌日また引き返し、六日目に戻つて來た。パリは幾らか平靜に返つたといつてゐた。
 九月十四日は私の誕生日であつたが、今年は誰も赤飯をたいて祝つてくれる人もなかつた。その日、私たちがパリの大使館に保管を頼んであつた殘りの荷物が、幸ひにもパリのM君の好意で送り屆けられた。
 その次の日は、朝早く意外な人の來訪を受けて私たちは喜んだ。エスパーニャで世話になつた矢野公使が、車でパリからの歸途、昨夜遲くボルドーに入つたのだけれども、ホテルがどこもいつぱいで車の中で夜を明かしたといふことだつた。私たちは下の食堂でいつしよに朝食をして、誘はれるまま、その車で鹿島丸を訪問することになつた。公使は船長F氏を知つてるので久しぶりで逢ひに行つたのである。
 ボルドー橋を渡り、河の右岸に沿つて二十分も車を駈けらすと、バッサン・アヴァルに着いた。鹿島丸はポスト第二號に横づけになつてゐた。船腹に日の丸が描いてある。戰爭區域を航行するので中立國の旗幟を鮮明にしようといふ表示である、梯子の下にはフランスの警官が二人武裝して立つてゐた。甲板にはもう乘り込んで散歩してる人たちがあつた。知つてる誰彼の顏も見えた。船客は昨日から乘せることになつてゐた。しかし、まだ出帆の日が發表されてなかつたので、大部分の人は乘つてなかつた。
 私たちは船長室でしばらく話し、晝飯の馳走に預り、今度は船長を誘つて船を出て、またボルドーの町へ引つ返し、サン・ミシェルの寺と、塔と、塔の下に隱されてある七十體のミイラを(これは私の案内で)見物し、それから郊外に出て、シャトー・ブリオンといふ見事な葡萄畠を(これは矢野公使の案内で)見物し、再び船に戻つて、パリの大使館から出張して來た事務官T氏、觀光局のY氏、マルセーユの副領事X氏などと一所になり、夕食後歡談に夜を更かし、十一時頃ボルドーの町へ歸つて來る途中、星月夜の街上に夥しい歩兵部隊の出征する所に出逢つた。停車場の方へ道歩《みちあし》で行進してゐたが、みんな默默として、靴音だけが高く響いた。
 私たちが鹿島丸の船客となつたのはその翌日(九月十六日)であつた。前の日、船を訪問した時、十六日の午前中に船客は全部乘り込んでもらひたいといはれた。順調に蓮んだら十七日には出帆したいといふことだつた。しかし、船ではまだ行先を發表してなかつた。それでも、いろんな根據から推定して、多分リヴァプールに寄港するのだらうと考へられた。けれども、それから先ははつきりしなかつた。恐らくパナマを通つて太平洋に出るのかとも思はれたが、その途中ニュー・ヨークに寄るかどうかはわからなかつた。船長自身にもまだわからなかつたらしい。
 鹿島丸には珍らしい航海者が乘つてゐた。此の船は大角大將・寺内大將などを乘せてナポリまで來ると、戰爭が始まり、それからマルセーユまで來ると、マルセーユで日本に歸るつもりで乘つた人が十二名、その人たちはボルドーへ運ばれ、これからイギリスへ運ばれて行くのである。その中には私たちが以前パリで知つてゐて、もう日本へ歸りついてるのかと思つてゐたF君も交つてゐた。
 更に氣の毒なのは、七月に日本を出て以來、ヨーロッパが戰亂の地となつたので上陸することができないで、此のまままた日本へ歸るといふ人が七名も乘つてゐた。
 その他はすべてボルドーから乘つた人たちであるが、私たちの外二三名を除けば全部フランスに滯在してゐた人たちなので、リヴァプールなどには寄らないで此のままスエズの方へなり、パナマの方へなり行つてもらひたいと、頻りにさういつてゐた。イギリスに滯留してる日本人の多くはイギリスに大きな愛着を感じてるやうであつたが、フランスに滯留してる日本人はまたフランス一點張で、イギリスには少しも親しみを感じてないやうだつた。それを私は一つの興味ある現象として考へて見た。
 さて、船には乘り込んだものの、いつ出帆するかわからないといふことだつた。出帆命令が來ないからである。大使館は何をしてるのか?マルセーユの領事館はどうしたのか?ロンドンのN・Y・K支店は何をしてるのか?と、そんな聲が船内に聞こえるやうになつた。一般乘客には眞相がわからないので、不安と不滿が充滿した。パリを出る時は乘せてもらふことが一つの感謝であつた者までが、乘り込んでから事態がかうこじれて來ると、不平の方がつのつて來て、一體此の船は避難船か商賣船かと開き直つたりする者もあつた。
 埠頭には大きたクレインが三臺も四臺も運び出され、大勢のベレ帽をかぶつた人足どもが、毎日朝早くから日の暮まで、艙口《ハツチ》の底から荷物を吊し揚げて倉庫の中へ運んでゐた。船客は、それを甲板に出て見物したり、船から下りて附近の葡萄畠を見に行つたり、タクシをつかまへてボルドーの町へ用たしに出かけたりした。みんなくさつてしまつて、つまらなさうな顏をしてゐた。
 ――動かない船もいいもんだね。
 ――なんのことはない、オテル・カシマだ。
 そんなことをいつて興じてる者もあつた。
 やつと二十一日になつて、明日正午リヴァプールに向け出帆の豫定といふ掲示が貼り出された。その時までまだ航路は正式に發表されてなかつたので、やつぱしイギリスへ寄つて行くのだつたかと初めて知り、中には、まだイギリスを知らなかつた者はリヴァプールでもどこでもイギリスの一角に觸れることを樂しみにしてる人もあつたが、大部分の人は、イギリスの海岸は危險だからそんな所へ寄ることは御免を蒙つて早く日本へ歸りたいといつてゐた。しかし、とにかく、陸を離れるといふことは一般の喜びであつた。
 ところが、その日になると掲示は剥がされてしまつた。出帆はまた延期になつた。不安と不平が前よりも濃厚に充滿した。説明する者がないので疑惑が疑惑を産み、流言蜚語が飛び交《か》つた。事實は、フランスの官憲が更に法律の適用を考へ出して、中立隣國(ベルヂク)への積荷をも差押へ得る權利があると主張して、アントワープ行の貨物をも押へようとして、それにからんでのいきさつであつたらしい。
 ――これからまた幾日もかかつて荷揚が始まるのか?
 ――もう荷揚はすんでるんだ。それを取り戻さうとしてるんだ。
 ――そんな物はくれてやつて、早く出したらいいぢやないか。
 ――なあに、船では荷物の方がお客さんで、お客さんの方は荷物よりもつまらないもんだよ。
 ――荷物は不平を言はないからな。
 ――金になるからだ。
 そんな對話が取り換はされるのも聞かれた。
 船は殆んど全部積荷がから[#「から」に傍点]になつて、滿載吃水線の白い記號が水面から一メートル半も上の方に浮き上つてゐた。しかし、一度荷揚をした貨物のうち、アントワープ行の分だけは、或る有力な方面(日本の官憲ではない)の仲介に依つて差押を免かれ、その代りまた積戻しをすることになつた。ところが、二十三日は土曜日、二十四日は日曜日で、役人も人足も働かないので、二十五日の早朝からその分の積込みを半日ですませ、その日の午後出帆ができるといふことに決定した。
 船に乘り込んでから十日目、ボルドーに着いてから二十四日目に、とにかく鹿島丸は「ホテル」から「船」に還り、イギリスへ向つて錨を捲き上げた。

      附記

 フランス在住の日本人避難者を乘せた鹿島丸は、九月二十五日午後四時三十分バッサン・アヴァルの岸を離れて、ガロンヌ河を九〇キロ下航し、ビスカヤ灣を横斷して、人人の心配の種となつてゐたイギリス海峽をずつと東の方に見て、セント・ヂョーヂ海峽に入り、二十八日の明け方、やつとリヴァプールに着いた。
 地圖で見ると緯度でわづかに七度ほど北上するので、横濱から八戸の先の鮫港までぐらゐの航行に過ぎないわけであるが、鹿島丸は七十二囘の航海をする老齡船のことではあり、フランスの領海は一歩沖に出ると何處に水雷が敷設してないとも限らないといふ不安もあつて警戒しながら行つたせゐか、意外に時日を要した。それに航行中乘客に氣を揉ませた事件も一つならず起つた。私は寢てゐて知らなかつたが、ガロンヌを下つて、まだ下流のヂロンドを出きらないうちに、推進機に故障を生じて長い間停船してゐたさうだ。それから海に出てブルターニュの海岸を通つてゐると、どこかの(多分フランスの)驅逐艦に追つ驅けられて、燈火信號で西の方へ迂※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]しろと命じられた。ブレストの軍港が近いので、その邊には艦隊が集まつてゐたらしい。日本の汽船は中立國の安全を守るため、船腹に大きく國旗の標章を塗り出して、電燈をあかあかとつけて走つてるので、その光で艦隊の存在を知られることを懼れての信號命令だつたらうと推定される。初めその信號が即時に受け入れられなかつたためか、驅逐艦はわれわれの船の周りを輪を描きながら追ひ立てて行つたのが、ちよつと氣味がわるかつた。さういつて實見者のU君が翌る朝みんなに話すと、なにしろ杖をつい
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