戰線があまりにも遠く離れてゐるので、さう思ふともどかしくなるほど、どことなくのんびりした空氣が漂つてゐた。此の邊鄙の町に一八七〇年にフランスの政府は、ドイツ軍の侵入を恐れて一度トゥールに避難したのが、遂に移つて來たのであつた。此の前の大戰の時も、フランス政府はボルドーへ移つた。今度も局面の變轉によつては、またボルドーへ移つて來るだらうといふ説もある。パリの南東約六五〇キロに位置する此の町は、ドイツの飛行機に容易に見舞はれるといふ心配がないのでか、夜になるとさすがに街上は暗くなるが、それでもカフェやレストランは――私たちの着いた初めの數日間はまだ――あかあかと灯がついてゐた。私たちが疲れて着いた晩に停車場前のレストランでとにかく空腹を養ひ得たのもそのおかげだつた。晝間はことさら平生とあまり變つたところもなく、殊にガンベッタ廣場からグラン・テアトルへかけての大通などはパリの殷賑を持つて來たかと思へるほどの人通りが見られた。尤も、その大部分は避難者のやうではあつたけれども。
 だから、ボルドーでは戰爭は殆んど實感することができなかつた。戰爭について知り得るのはラディオと新聞に依つてのみだつた。しかし、ラディオは逸早く政府によつて統制され、新聞も同樣に統制され、(共産黨の機關紙は八月にはすでに發行を停止され)、毎日紙上に發見し得る戰爭の報道といつては、いつも同じやうに第一面の約半分の面積を埋める西部戰線の地圖と、讀んでも讀まなくても同じやうな二三行のコンミュニケのみだつた。外交官であり作家であるヂロードー氏が宜傳相になつたといふのに、そのコンミュニケは、見方によつては要領のよいものともいへるが、要領がよすぎてつまらないことおびただしかつた。ボルドーで手に入る唯一のおもしろい新聞といへば『デイリ・メイル』くらゐなもので、それもサン・ヂャンの停車場まで一日おくれのを買ひに行かねばならなかつたが、それとてもフランス官憲の統制の下に賣られるのだから、知りたいと思ふことが十分に知られないのはもちろんだつた。
 つまり、私たちは戰爭の國にゐながら戰爭のことはあまり多く知ることはできなかつたのである。
 けれども、戰爭をしてる國民の志向と感情と行動の現れだけは目《ま》のあたり觀察することができた。殊に何よりもフランスの心臟ともいふべきパリの市民の鼓動は、私たちの後《あと》から毎日次次にボルドーへ避難して來る人たちによつて傳へられた。それは決して戰爭その物の情報ではなく、戰爭の描きだす波紋の或る一方面に限られた現象に過ぎないものではあつたけれども。

       一〇 風聲鶴唳

 四日にパリを出た人の話。――
 パリの空は無數の阻塞氣球で防護されてゐる。パリジャンはそれをソーセージと呼んでるさうだ。形が似てるからだ。(ロンドンの空もおびただしい阻塞氣球の城壁が築かれたといふ。)
 燈火管制が嚴重になつた。眞夜中に見ると、美しい星空の下にパリは廢墟のやうに横たはつてるのが凄いやうだといふ。
 最終の避難列車は六日にパリを出る。それに乘りおくれるとボルドーへの交通は杜絶するかも知れない。と、これは日本人間の噂だつた。
 列車は非常な混亂で、ケー・ドルセーの停車場では卒倒した女が何人もあつた。尋常なことでは列車に乘れないので、窓から攀ぢ登る者もあつた。持つて來た荷物をプラットフォームに棄ててしまつた者も少くなかつた。――そんな話を聞くと、またしても大震災の時の混亂を思ひ出す。フランス人も修養が足りないやうに思はれた。
 英國汽船アシニア號がドイツの潛水艦に撃沈された。乘客の大多數は、しかし、救助された。
 五日にパリを出た人の話。――
 午前三時半頃、最初の警笛《アレルト》が市民の眠を驚かした。皆ガス・マスクの袋を提げ、懷中電燈を持つて、地下窖《アブリ》へ逃げ込んだ。アレルトはどんな音かと開くと、非常に低い調子で、非常に鈍い高低で、とても陰氣で、聞いただけでも陰慘な氣持になる。それにアブリの中は暗くて臭くて、あんな所に何時間も閉ぢ込められたら氣がちがつてしまふ。と、その人は眉をしかめて話した。
 それで飛行機は本統に來たのかと聞くと、初めは敵の空襲だとばかり思つてゐたし、みんなもさういつてゐたのだが、よくわからなかつた。ドイツの偵察機が國境を越えたぐらゐの事かも知れない。或ひは豫行演習だつたのかも知れない。いづれにしても不愉快なものだ。といつてゐた。
 ロンドンでは四日の未明に最初のサイレンが市民の夢を驚かしたといふことだ。
 イギリスの飛行機がキールの軍港を爆撃したといふ報道がフランスの新聞で傳へられた。
 六日にパリを出た人の話。――
 此の日も朝の三時過にアレルトがパリの空に鳴り響いた。また豫行演習だつたのだらうといふと、高射砲の音がさかんに聞こえてゐたから、ほんとうに來たのかも知れない、とその人は眞顏になつて話した。それから、午前十一時頃にもまたアレルトがうなりだして、また高射砲の音が方方で聞こえてゐた。眞夜中ならとにかく、晝間のことだから演習とは思へなかつた。あの音を聞くと全く落ちつかなくなる。世の中にあんな咀ふべき音響はない。さういつてその人は憤慨してゐた。
 今一人の人は、パリの大學都市の附近に爆彈が落ちたといふ話を持つて來た。君が見たのかと聞いたら、見はしなかつたが專らそんな噂だつた、といふことだつた。
 フランスとイタリアの國境は、一度閉されてゐたが、すでに開かれてるといふことだ。ボルドーに避難してる人の中には、これからマルセーユに出てイタリアに入り、ヂェノアかナポリから船に乘らうといつてる人もあつた。その人は、フランスに着いたばかりで戰爭になり、フランスの美術が見られなくなつたので、せめてイタリアだけでも見て歸りたいといつてゐた。しかし日本郵船はこれから當分皆パナマ經由で歸るともいはれてゐたので、イタリアに行くことも躊躇してゐるやうだつた。
 新聞はイギリスの飛行機が首相チェインバレン氏の名に於いて「ドイツ人に告ぐる」ビラを撒いたと報じた。イギリスはドイツ人を敵とするのではない。ヒトラー氏の信義に悖る行動を恕すことができないのだと書いてあつたさうだ。
 此の種の宣傳に幾ばくの效果を期待してよいか知らないけれども、此の度の戰爭は宣傳に始まつて宜傳で進行してゐるやうな觀がある。三日にはチェインバレン、ダラディエ、ヒトラー諸氏の放送があつたさうだ。
 七日。フランス政府のコンミュニケはザール方面に於けるフランス軍の進出を報じた。マヂノ線から進出してジークフリート線の方へ接近しつつあるといふのだつた。ドイツは東部戰線に主力を集注してポーランドの占有を目ざしてゐるので、もしさうだとすれば、西部戰線は受身の形になつてるのだらう。
 八日。フランス政府のコンミュニケは、ドイツが西部戰線の方へ強力な援軍を送りりつあることを報道した。
 九日にパリを出た人の話。――
 パリに殘留する外人は改めて殘留の理由を警察に屆け出なければならぬことになつた。身元證明書に査證《ヴィザ》を取るのであるが、それに指紋を要するのが不愉快だといつてゐた。彼はその時は殘留しようか歸國しようかと迷つてゐたので、念のため査證を取りに行つたところが、警官が亢奮してゐて甚だ穩やかでない言葉を使ひ、此の非常時にパリで學問をしようと思ふなどは心得ちがひだ。殘留するのなら義勇軍に志願しろといつたさうだ。一人のブルガリア人は何か口ごたへをしたので横つ面を撲《は》られ、最後に階段から蹴落された。その青年はそれを見てこわくなり、査證ももらはないで歸つて來た。
 いつしよにその話を聞いてゐたAは、なんだかフランス人らしくないね、といふと、Bは、それがフランス人だよ、といつた。
 それから、パリでは諸般の取締が日に日にやかましくなり、アレルトの鳴つてる間、即ち、人人がアブリへ逃げ込んでる間、他人の室内に侵入した者は死刑に處するといふ布令が出たさうだ。戸外でガス・マスクを携帶しない者は三十フランの罰金を課するといふ達示も出たといふ。ガス・マスクはボルドーの市街でもたいがいの人は持つて歩いてゐる。しかし、船を待つてる外國人には持つてない者が多い。
 私たちのホテルには二三日前から一組のドイツ人らしい家族が泊まつてゐたが、そのうち二十《はたち》あまりの息子らしい青年は姿を消した。私は市街の方方に貼り出されてある掲示を思ひ出した。敵國の國民で十八歳以上五十歳以下の男子は何日何時まで毛布と寢衣を持つてどこそこに集合して當局の指示を待つべしといふ意味の命令だつた。一定の場所に集めて何かの勞役に服せしめるのだらう。もちろん一種の捕虜である。
 息子を奪はれた家族の人たち――父親と母親と娘――は見る目も氣の毒なくらゐにしよげ込んで、いかにも肩身狹く感じてゐるらしく、下の食堂には大ぜいのフランス人がいつも外からも來るので、食事の時間もずり下げて片隅に小さくなつてかたまつてゐた。或る日、食堂の入口で出逢ふと、人なつかしげに寄つて來て、あなた方は日本の船でアメリカへ行くのではないだらうか、と尋ねた。アメリカへ寄ることになるかどうか、まだ船が來ないからわからないけれども、とにかく日本の船でフランスを去るのだ、といふと、われわれをも乘せてもらへまいかと熱心にいひだすのだつた。できたら乘れるやうに助力して上げたいけれども、恐らく日本人以外の人は乘る餘地がないだらう。と、さう答へる外はなかつた。鹿島丸の收客人員は百三十名であるのに、申込者はすでにそれを超過してるといふやうなことを私は聞いてゐた。しかし、くわしいことはN・Y・Kラインの代理店に行つて聞いて見なさい、と注意して、そのアドレスを教へてやつた。彼等はすぐそこへ行つたに相違ない。けれども多分ことわられたのだらう。それから後もときどき顏を合せてゐたが、いつも淋しさうな表惰で會釋をするのが氣の毒だつた。
 彼等はその以前に合衆國の汽船會社支店にもカナダの汽船會社支店にも頼みに行つたのだけれども、アメリカ人やカナダ人の歸國する者さへ收容しきれないのだから、といつてことわられたといつてゐた。數日の後、私たちが鹿島丸に乘り込む時まで彼等は心細さうな顏をしてホテルの玄關を毎日出たり入つたりしてゐた。

       一一 鹿島丸

 十二日になつて、やつと鹿島丸はボルドーに入つて來た。
 すでに三日にマルセーユを出帆したといふ報告を聞いてゐたのに、どうしてかうも後れるのだらう、と、ボルドーで待ちあぐんでゐた百數十人の日本人は誰しも不審を懷かない者はなかつた。
 しかし、とにかく、鹿島丸は入つて來た。
 入つては來たけれども、まだ乘るわけにはいかないといふ。
 疑惑がまた廣まつたが、すぐにその理由は知れわたつた。鹿島丸はハンブルク行の積荷一二〇〇トンを載せてゐた。それをフランス政府に差押へられたのである。それを荷揚するために、ボルドーの港から八キロ(町からは十三キロ)の下流なるバッサン・アヴァルの岸壁に碇泊しろと指定されたのである。
 それで翌十三日、上汐《あげしほ》の時刻を見はからつて船はバッサン・アヴァルへ下つてしまつた。避難者の乘込は、その荷揚がすんでからといふことになつた。
 乘り込むまでにまだ暇があるので、書き洩らしたことを少しばかり補つて置くことにしよう。
 ボルドーに着いた翌日、私たちはプラース・デ・グラン・ドムの附近のホテルに落ちつくと、彌生子は前の晩停車場で見はぐれた正金の家族の人たちが心配してるといけないから、無事に落ちついたことを早く知らせて上げたいといひだした。人口二十五萬の都市だから、ホテルの數だつて大小おびただしいものだらう。それをしらみつぶしに搜すわけには行かないのであるが、搜すのに一つの手がかりは、一行二十七人といふ大勢ではあり、殊に子供の數が非常に多いといふことだつた。日本人の子供は外國人の子供のやうに室内におとなしくしてないで、戸外にたかつて遊んでるに相違ないから、公園とか廣場とかに行つて見たら出逢ふかも知れない。さう思はれたので
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