て歩いてるやうなお婆さん船だからね、と笑つてる人もあつた。しかし、そんな噂さが乘客の多くの人に不安を與へたことは事實だつた。
リヴァプールに着くと、對岸のバークンヘッドの岡の上の住宅地の景觀が、私には半年ぶりでイギリスらしいものを見て一種のなつかしさが感じられたが、フランスにのみ住まつてゐて初めてイギリスを其處で見た人たちには、やはりフランスの方がよいと見えて、輕侮するやうな言葉を漏らしてゐた。
空には阻塞氣球がふわふわ浮かんでゐて、しばらくボルドーでのんきに暮らして忘れがちになつてゐた戰爭氣分がまたよみがへつた。N・Y・Kの人たちに迎へられ、數臺のバスに分乘して、乘客は全部二三のホテルに分宿することになつた。停泊中の一週間は船内に起臥することが禁じられてゐたからである。
リヴァプールの町も見物したが、博物館は閉鎖されてあり、ほかに大して見るものはなく、むしろ市街の武裝防備を見て歩くことに興味を感じた。商店の窓ガラスの前には軒の高さまで砂嚢を積み立て、通行人は男も女もガス・マスクの袋を肩から斜に懸けてゐた。私たちもリヴァプールに上陸すると、警官に一箇づつガス・マスクの箱を與へられた。必要が生じたら開封して使用しなさい。乘船する時には返してください。と書いてあつた。私たちは風呂敷に包んでそれを持ち歩くことにした。とうとうロンドンまでそれを持ち込んだ。といふのは、丁度よい機會だから私たちはリヴァプールからあまり遠くない湖水地方《レイクヂストリクト》へ泊りがけで見物に出かけ、其處からロンドンへは歸つたのであつた。私たちはロンドン居住者といふことになつてゐたので、その手續は簡單だつた。
ロンドンへの途中、マンチェスターもバーミンガムも空には夥しい阻塞氣球の城壁ができてゐて物物しかつたが、ロンドンに入ると更に夥しい氣球で、それだけでも戰爭氣分を滿喫するに十分だつた。ロンドンではもとのハムステッドの宿に歸つた。家政婦のミシズ・ハントはよく歸つて來たといつて、涙を流して喜んでくれた。しかし、私たちが半年間住まつてゐた一階のプロフェサー・Mの書齋は燈火管制に對する設備が十分でないからといつて三階の部屋に案内された。
ロンドンの四日間は忙しかつた。大使館に用事もあれば、世話になつた人たちに逢つて挨拶もしなければならなかつた。その間に議曾に出かけて首相チェィンバレン氏の演説(總統ヒトラー氏の演説に答へる意味での演説)を聽いたり、深夜の豪雨を侵してタイムズ社を訪問して、其處に部屋借をしてる朝日支局の北野君と香月君に逢つたり、その他、戰爭のために變貌してるロンドンの町町を見て歩いたりして、感慨の深いものがあつたが、此處には省略する。
十月五日に鹿島丸はニュー・ヨークに向つて出帆するので、その朝ロンドンにさよならをした。ロンドン在住者の家族で日本に歸る人の若干も同行することになつた。
リヴァプールからニュー・ヨークまで三一三一浬、クィーン・メァリ級の船だつたら五日目には着くと聞いてゐたのに、われわれの憐れな鹿島丸は十二日間を費して十六日の朝やつとブルクリン第十六埠頭に辿りついた。大西洋は相當に荒れ、北緯五十三度から四十度まで南西へ下つて行く間に殊にひどい大波を受け、食堂もしばらく閑散の日がつづいた。十三日の深夜、船長F氏の厚意でオーロラが見えると知らせてくれたので、ブリッヂに立つて北の水平線の上を見ると、黒い雲が二筋長くたたびいて、それを貫いて白い空に、一層白い線が幾つも放射してるのが見えた。
ニュー・ヨークで私たちは親愛な鹿島丸と別れ、まづホテル・ニューヨーカーにトランクを持ち込んだが、すぐ船に呼び返されて、朝日の國際電話で同行の數名の人たちと久しぶりで日本との通話をした。ヨーロッパからアメリカへ來ると世界が急に明るくなり、夜は不夜城の如く電燈が照り輝き、都市の歡樂は到る所に充ち溢れ、世界のどの邊で戰爭が始まつてるのかわからなくなつてしまつた。
ニュー・ヨークでは世界博覽曾開催中なので、それも見に行つたが、ニュー・ヨークからボストン附近へかけては結局十二日間見物して歩き、十月二十七日、サンタ・フェの大陸横斷列車に乘り、二日目にミシシッピを渡り、三日目にテキサスからニュー・メキシコを通り、四日目はグランド・キャニョンの見物で終日を過ごし、五日目にはサン・ベルナルディノの山嶽地帶を横斷して、正午近くにロス・アンゼルスに着き、ホリウッドを見物した。その日の新聞には、ロシアがフィンランドを脅迫して協定に調印させようとしてることと、イタリアの内閣が外相チアノ伯を除く外、全部更迭し、プロ・ヂャーマンの閣員が全部罷免されたといふことが出てゐた。
十一月一日、ロス・アンゼルスからサン・フランシスコへ行き、其處でフランス以來の柳澤氏とその家族の人たちと逢ひ同航して歸ることになつた。私たちはサン・フランシスコには三日間滯在して、十一月四日、淺間丸に乘り、九日ホノルル寄港、十八日午前十時、横濱に歸りついた。
まだ船が港外にかかつてゐる間に、サロンで記者團に包圍されて、大戰避難者としての觀察と感想を叩かれたけれども、ヨーロッパからアメリカへ、アメリカから日本へと、經度を越すごとに實感は失せてしまひ、外廓から見た大戰の印象もその頃はあらかた空疎なものになつてゐた。
底本:「西洋見學」日本評論社
1941(昭和16)年9月10日発行
1941(昭和16)年12月10日10版
入力:門田裕志
校正:染川隆俊
2009年6月10日作成
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