だから、今となつてはあまり冒險をしないで、少くとももう一日觀望した上のことにしてほしい。M君は熱心にさういつてくれるのだつた。
さういはれて見ると、私たちもその方がよいやうにも思ふやうになつた。理窟ではなく、氣持であつた。M君はパリに長くゐてさういつた方面の接觸も多いのだから、その忠言には耳傾くべきだと思つた。
私は明日は大便館に用事もあるので、そこで午前中にまた逢はうと約束してM君と別れた。
私たちの關心は同時にイタリアの向背にもかかはらないわけには行かなかつた。私たちの息子がローマの居住者となつてるからである。普通ならば、今夜か明朝あたりパリで逢へる筈だつたのだが、彼からは手紙も電報もとどいてなかつた。もう通信が杜絶してゐるらしい。それに、ローマでは、パリはすでに危險視されてるのかも知れない。
五 九月一日
明くれば九月一日。ドイツ軍は此の朝行動を開始したのであつたが、私たちが起き出た頃はそんな報道はまだ傳はつてなかつた。久しぶりで見るパリの朝の空は、エスパーニャほどではないが、それでもまことに明るく美しく、しかし、思ひなしか、町は何となく人けが少く、物靜
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