れる温泉の池があつて、白い煙が高く立ち昇つてゐた。郵便局に行くと、パリ宛の電報は(フランス人でも)警察の證明を持つて來たいと打てないことになつたといふ。事ごとに形勢の切迫を感じさせられる。しかし警察へ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてる暇はないので、よく事惰を説明し、公使の顏で發信してもらへることになつた。
 停車場に戻つて來ると、やがて列車が入つて來た。見送つてくれた公使と別れを惜んで私たちは車中の人となつた。
 今まではエスパーニャの旅行の延長のやうなもので、私の心像にはエスパーニャの事物がいつぱい充滿してゐた。嶮しい白い山、翡翠の空、羊の切身のやうな土の色、灰色の都市、田舍の赤屋根、寺院の尖塔、サボテンの舞踏、橄欖の群落、エル・グレコの青い繪、ゴヤの黒い繪、さういつたものが限りなく記憶のインデックス・ケイスに詰まつてゐて、何を見てもそれ等のものが比較のために顏をのぞけるのだつたが、さうしてそれが懷かしまれるのだつたが、不思議にも、汽車に乘つてしまふと、そんなものはすべてピレネーの連山と共に遙かの後《うしろ》の方へ後《あと》じさりして、行手のパリの空のみがしきりに氣にな
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