がて少し平たい道になると、青楓君の馬は口綱をはづして逸早くトロットをやり出した。F君がそれにつづいた。あとの四頭は荷駄を脊負つたやうにぱッかぱッかと拾つて行く。親爺に荷駄を積んだのとどつちがいいかと聞くと、お客さんも上手に乘つてくれるといいが、たいがいなら荷物を三十貫位積んだ方がまだよいねといふことであつた。槇村君は後の方で頻りに乘り方について質問を發してゐたが、險しい上リ坂や、危ない下り坂になる度に、ハイハイと聲を立てて馬に注意を與へてゐた。それが怖い怖いといふやうにきこえてをかしかつた。けれども、道は全くひどい道で、石ころの多いことは箱根の舊道などの比ではなく、本栖《もとす》の村の入口の坂などは、後から考へて見ると、初めての經驗でよく乘れたと思はれるほどであつた。
 本栖の村は寂びれた貧しげな村であつた。坂を下る時、村の屋根ごしに青い水が廣く見えた。西湖に似て、更に淋しさうに見えた。湖水の縁まで下りて見るかと云はれたけれども、誰も下りて見ようといふ者はなかつた。それほどまだ馬に慣れてゐなかつたのである。昨日精進に着いて以來煙草がなくて弱つてゐた人はその村で買はせたけれども、馬上で吹かして行ける者は一人もなかつた。馬は私の乘つた馬だけが精進の馬で、あとは皆本栖の馬だから、村に入ると馬子は皆んな自分の家へ寄つたり、徃來に立つてゐる人に物を云つたりした。その間に虚山君の馬の口を曳いてゐた子供の母親らしい女が駈け出して、紙に包んだもの(大方菓子だらう)を小さい懷に入れてやつた。
 村を左へ折れて坂を上つて行くと、右手に湖水が遠くまで湛へてゐるのが見渡される。西湖よりも餘程大きさうである。湖はすぐ見えなくなり、木立も盡きて、まともに八月の太陽の光を浴びながら、石の多い道――と云ふよりも、凸凹の甚しい岩――の上を手綱を緩めたり締めたり(下りには緩めて、上りには締めろと教へられたので)しながら、馬の數倍の用心をしいしい進んで行くうちに、いつしか驚くばかり壯大な景色の中に立つてゐた。私は輕井澤から追分へかけての高原を歩いたこともあり、妙高山の高原を歩いたこともあるけれども、これほどの雄大な高原はまだ見たことがなかつた。富士は半分以上雲の中に隱れてゐたが、右の方にすぐ龍ヶ岳が聳えて、その山と富士の中間の臺地が私たちの前に限りなく遠くまで起伏してゐるのである。皆んな口口に、いいね、いいね、と叫んだ。どこを見ても一面の草原で、その間に秋草が咲いて、なでしこの色が湖水の縁のよりも一きは濃く、ところどころに菖蒲の咲いてゐるのも珍らしかつた。
 根原《ねばら》といふ村を過ぎる頃から、道はどんどん下りになつた。もう皆んな馬上の高さに慣れて、兩足の内腿で鞍を締めつけるやうにして馬の歩行のリズムにつれて腰を浮かす調子が幾らかわかつて來たから、(口綱はもう皆んなはづしてゐた、)時時トロットをやつて見ようとしたが馬はいふことをきかなかつた。私の馬と虚山君の馬は殊に後れがちであつた。虚山君のは十五歳の年増だといふことがわかつて大笑ひになつた。私の乘つてゐるのは姙娠五ヶ月だと聞いて、これは笑ひごとではなく、むしろ可哀さうになつた。のみならず、途中で氣がついたのであるが、下り坂になると左の後足を石にぶつつけるのでどうしたのかと思つたら、その足だけに大きな草鞋が結《ゆは》ひつけてあつた。まん中の爪を傷めてゐるのだと親爺が説明した。幾ら五圓になるからといつて姙み馬の、しかも怪我までしてるやつを引張つて來るのはひどいと思つた。それに乘り合はせたこともいまいましかつた。それから、全くめちやくちやな石ころ道を下りて、人穴《ひとあな》の村に出るまでに、私は馬がつまづいて二度までも投げ出されさうになつた。とうとう村に出る五六丁手前の坂で、私たち三人――私と虚山・槇村兩君――は馬を下りた。
 十一時半に人穴の村の或る店先を借りてサンドヰッチの中食をすませ、また馬に乘つて三里十何丁、上井出の村の手前から右へ少し後戻つて、白糸の瀧と音止の瀧といふのを見て、それから上井出の村に入ると、道の兩側にきれいな水が流れてゐて、家毎に水車が緩く廻つてゐて、海が近さうな涼しい風が吹き、久しぶりに町らしい町に入つたやうな氣持になつた。私たちは町はづれの茶店に休んでサイダを飮んだ。私の乘り捨てた憐れむべき姙み馬は或る蹄鐵工場に入れられた。
 三時半に上井出を發する鐵道馬車に乘つて、四時四十分頃大宮町についた。蒸し暑い小さい車臺の中でかんかん照りつける西日を受けながら、例の小田原評定をまた始めた。結局、大宮には登山客が雜沓するだらうから泊らないといふことだけをきめて、大宮から富士驛までの切符を買つた。
 富士身延の輕便鐵道は思つたより乘心地がよかつた。大宮町の停車場で、休刊してゐた東京の新聞が出てゐたこと
前へ 次へ
全6ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
野上 豊一郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング