湖水めぐり
野上豐一郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)西湖《にしのうみ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)氣※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]を
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 大正八年八月四日。
 青楓君と大月に下りたのは午前九時三十三分だつた。停車場の前に並んでゐる小さい低い赤と青で塗つた平たい馬車と宿屋の前に吊してある無數の雜色の手拭みたいな講中のビラがまづ目についた。次の汽車で來る二人の同行者を待つために、私たちは濱野屋といふ家の二階の奧の間に寢ころんで、すぐ前に横たはつてゐる圓いずんぐりした山の形に感心したり、その山の向の方から吹いて來る割合に涼しい風を褒めたり、地圖を開いて見てこの邊は千二百尺に近いことを發見して、道理で風が涼しいんだと思つたり、隣りの部屋に圓座をつくつて登山の用意をしてゐる講中の群を物珍らしく眺めたり、それを青楓君は寫生したり、東京では印刷職工のストライキのため新聞が四五日休刊になつてゐたので甲府の新聞を手に取つて見る氣になつたり、その中で早稻田の片上君が甲府の或る教育會の夏期講習で文藝と教育の問題に關して氣※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]をあげたといふ記事を讀んだり、そんなことをして時間をつぶしてゐるうちにおひるになつたので、鮎と鯉と卵で晝飯を食つて、そこいらをぶらついて、さんざ停車場で退屈した末に、やつと午後零時三十何分かの下りが着いた。槇村君と虚山君が小さい寫眞機を手に下げて大變な意氣込で下りて來た。吉田口までは馬車で行く豫定であつたが、暑い日に照りつけられてガタガタ四時間半も搖られて行くのは閉口するといふので、自動車で出かけることになつた。吉田口まで十三圓、船津まで十五圓といふ賃金表が出てゐる。船津まで乘つて、都合に依つたら今日の内に西湖《にしのうみ》か精進《しやうじ》までのさうといふ説も出たが、草鞋の手前もあるので(青楓君だけは靴)とにかく吉田から先は歩いて見ようといふことになつた。
 十分ほど前に出た數臺の鐵道馬車をば大月の町はづれで追ひ越し、今朝九時三十分の汽車でついた人たちを乘せた馬車をば谷村《やむら》と吉田の中間で追ひ越して、一時間と少しで吉田の町に入つた。銅の大鳥居をくぐつてどんどん上つて行くので、何處まで持つて行くつもりかと思つてゐたら、ショフアは心得顏に町はづれの芙蓉閣の門に横づけにした。寺のやうに古びた大きな玄關の欄間に寄進札のやうな長い板が何枚も貼り付けてあつて、昔から此の家に泊つた官職の高い人たちの名前がそれに書きつけてあつた。スター博士も一昨夜此處に泊つたとかいふことであつた。私たちは草鞋のまま玄關前に椅子を四つ列べて、五萬分一の地圖を擴げて主人から行先の道程について説明を聞いた。召使の男たちも四五人私たちの周りに立つて口を插んだ。それ等の話を綜合すると、河口湖を横斷したところで、それから先は精進湖までは泊まるやうな家はないから、今日は船津に一泊するより外はあるまいといふことであつた。船津までは吉田から約一里ださうである。
 吉田から先は少し歩かうと云ふことであつたけれども、わぎわざ歩くほどの價値もなささうな所だから、それに、歩くとなると槇村君の提げて來た大きなカバンのために人夫を一人傭はねばならぬので、矢張り鐵道馬車で出かける事にした。桑と黍と小松の間の下り道をのろのろと一頭の馬が首を振り振り曳いて行くのである。富士は曇つて裾野だけが明るく展けてゐた。馭者の親爺は小倉の洋服に下駄を突つかけて馭者臺に棒立ちになり、馬の爲に絶えず口笛を吹いてゐた。之は信玄鐘懸の松だとか、あれがみさか峠だとか、一一槇村君の問に答へてゐたが、あとでは、あれはただ[#「ただ」に傍点]の山だといふやうな事を云ふやうになつた。
 馬車を見捨てた所からだらだらと坂を下りると、すぐ目の下に河口湖が青く沈んで見えた。寺があつて、社があつて、其處を入りかけて右へ折れると、岩の上に箱を戴せたやうな家がある。青楓君が數年前寫生に來て泊つてたことがあるといふので、その宿屋に入る。虚山君と槇村君は草鞋を解かないで、寫眞機を持つて何處へか行つてしまつた。
 私と青楓君は浴衣に着替へて湖水を眺めたり雲に蔽はれた富士を見たりしてゐたが、まだ日が高くて二階には相當のほてりがあり、外へ出て見たところで大してしようもなささうだから、(實際、河口湖は平凡である、)やがて歸つて來た兩君と一緒になつて寢ころびながら、例の大カバンの中から罐詰のソオセイジを取り出したり、ミルクココアをこさへたりして雜談に耽つた。
 やがてお湯が立つたといふので湯殿へ行つて見ると、風呂の中から湖水
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