の片端が見下されるのはよいが、此の地方は水汲に骨が折れるから風呂桶の中からしやくひ出すことを斷るといふ貼札が出てゐた。といつて、別に上り湯があるではなし、洗面用の水桶から汲み出して洗ふか、風呂桶の中であかを洗ひ落すかするより外はない。それは我慢もできたが、その晩私たちは田舍芝居を見に行つて夕立に逢つて足をよごして歸つたから湯殿へ足を洗ひに行くと、もう風呂は拔いてあつて、洗面用の桶の水が暖かい。すかして見ると脂がひどく浮いてゐた。それで、翌る朝は持つて來た水筒の水で含嗽をするといふやうなわけであつた。それから蚤の多い事と電燈の暗い事と食べ物のまづい事(東京から來たといふ骨つきの刺身など)と、便所の清潔でない事と、これ等は何とかならぬものだらうかと思つた。最後に女中の一人が赤い腰卷の上から、笹縁の附いた薄いアッパッパを一枚着たきりで給仕をしたりするに至つては、みんなあきれ返つてなんにも言はなくなつてしまつた。
 五日。
 五時と六時の間に日が出た。それが山の上に現はれる前に湖水の中へ突き出した小山の縁が一番に金色に光り出して、それからその向の山、手前の水面が輝いて行く變化は美しかつた。前の晩に頼んで置いた舟の用意が出來たといふ知らせはまだ皆んなの寢てゐる内にあつた。朝飯がすむとおかみが上つて來て、船便を借りたいといふ人が二人あるといふことであつた。私たちは差支へないと答へた。
 今日は湖水を二つ横斷して、その間にある小さい峠を越えて、三つ目の湖水に達するまでに二里の森林を通り拔けねばならぬので、例の大カバンのために一人の人夫を傭ふことにした。船津から精進《しやうじ》まで二圓といふ約束で。
 渡船は宿屋のすぐ下の濱邊から出て、向の長濱といふ小さい村に着いた。九時半。富士は昨日よりよく見えたが、それでも顏だけはヴェイルを取らなかつた。六合目か七合目かの石室が肉眼でもよく見えた。馬返しの附近にはもう登山の群が見える頃だといふので、舟の中から頻りに望遠鏡をのぞいたけれども、なんにも見えなかつた。
 舟の中の話は船津の宿屋の惡口が大部分であつた。此間亡くなつた和田垣博士の駄洒落の話をする者もあつた。青楓君はその間眠つてゐた。道づれになつた二人の青年は默つて、舳《へさき》の方に頬杖をついて山ばかり見てゐた。二人とも切り立ての脊廣に赤靴をはいて、ゲイトルもかけてゐなければ洋傘も持つてゐなかつた。
 長濱に上るとすぐ道は上りになり、照りつける日は熱かつたけれども、三十分の後には私達は鳥坂峠の頂上に立つてゐた。其處から今渡つて來た河口湖を後に見下し、これから横ぎらうとする西湖を目の下に見やつた眺めは、恐らくいつまでも忘れられないであらう。更に、西湖の向に青木ヶ原の樹海を見渡し、それに續く丘陵の先に龍ヶ嶽(その頭《あたま》は富士と同じやうにまだ雲の中に隱れてゐた)を見た景色は、たとへば、此處から引返すとしても私たちは此の旅行を後悔しないだらうと思はれる程度のものであつた。峠の涼しい風に吹かれながら、虚山・槇村の兩君は寫眞機を抱へて頻りに駈け廻つてゐた。
 それから西湖《にしのうみ》の村へ下りるのはわけはなかつた。湖は漢音でよみ、村の名はの[#「の」に傍点]の字を入れて訓讀するのださうである。鳥坂峠を上つた高さと下りた高さとから測つて、私たちには、西湖の方が河口湖より餘程水面が高いやうに思はれたから、西湖で雇つた船頭に聞いて見ると、何百尺と違ふといふことであつた。さう云へば、長濱の山の側面に水力電氣の例の竪琴のやうな裝置がしてあるのを見た。
 西湖《さいこ》は周りにすぐ山が迫つて、河口湖よりは暗いけれども、それだけ靜寂の氣に多く充ちて、私には高く値ぶみされる。けれども舟で渡るよりも、鳥坂峠から見下した景色の方が遙かによい。舟で行くと、その間に富士が斷えず見えてゐるのがうれしい。湖の中程から美人はとうとうそのヴェイルをとつてしまつた。虚山君が誰よりも喜んで聲に出してその美人に挨拶した。私たちは紅葉の季節に來た方がよかつただらうといふことに意見が一致した。青木ヶ原の湖水に面した方は雜木が夥しく茂つてゐたから、霜に色づく時の眺めが思ひやられた。
 舟を見捨てて一丁ほど桑畠の間を歩いて行くと根場《ねんば》といふ村である。まだおひるには早いけれども、これから森林にかかるのだから腹をこしらへて置かうといふことになり、村に入つて二軒目の綱と桃太郎といふ二つの名札の出てゐる家を探して晝飯の用意を頼んだ。これは船頭に聞いて來たのである。二人の道づれの青年を合せて六人、それに人夫を入れて七人分の飯をたいて貰ひ、ジャガタラ芋を鹽煮にして貰ひ、それに新鮮な胡瓜を刻んで花鰹をふりかけて、意外にうまい食卓についた。青楓君を徴發係にして近所の家から牛肉と魚肉の罐詰を買つて來て食つて
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