いコオヒを啜つたりした。それを運ぶのは、前週中に來た一人のウェィタと、一昨日から來てゐるといふ東京市麻布區六本木の少女である。――讀者は、私たちが宿屋につくとすぐ女中の戸籍をもう知つてゐるのに不審を懷かれるかも知れないが、これは恐らく諸君だつてさうであらうと思ふが、日本の紳士の一般の癖として、宿屋について、女中がまづお茶を持つてデブューすると、お前はどこから來てゐるか、名前は何といふか、更に、年は幾つか、……全く必要もない質問を發する習慣がある。
 私たちの集まつてゐた窓の前にはまつすぐな赤松が何本も立つて、その間から、肩を稍※[#二の字点、1−2−22]そばめ加減にして端坐した富士孃の、全身に夕日を浴びてまぶしさうにしてゐる姿が、時間の進むにつれてだんだんと近くなつて來るやうに見えた。私たちは明日の旅程について相談した。裾野を馬で越して大宮へ出ようといふ説と、峠を三つ越して甲府へ出ようといふ説が問題になつた。遂に前説が勝つて、ミス・六本木を呼び、馬を六頭明朝用意するやうに云ひつけてくれと頼んだ。馬はこれから約一里向の本栖《もとす》の村から引いて來るのだから今夜の内に命じて置かないと仕事に出てしまふだらうといふことであつた。
 精進湖《しやうじこ》で景色の美しさと共に氣に入つたことは、一體の空氣の靜かさであつた。山の間の湖といふ感じは今までの内で此處が一等である。ホテルの中も閑靜で、二間ほど離れた部屋から女の聲で英語らしいアクセントが微かに漏れるのと、時時ピヤノの音が聞こえるのと、それから日が入つて珍らしい鳥の啼き聲がし出したのと、音のするのはそれきりであつた。さうして今日途中で逢つたアメリカ人らしい若い男が相變らず上衣なしの姿で、大きなパイプをくはへながら窓の下を行つたり來たりしてゐた。
 食事は八時半だつた。それまでの一時間餘りを私たらは食堂の隅で雜談しながら過ごした。ピヤノと竝んだ書棚の中にはミセズ・オリファントやクロケットなどの小説が詰まつてゐた。食事は私たちだけ六人で一つのテイブルを圍み、少し離れて例のアメリカ青年と二人の婦人(若い方はキモノを餘り不釣合でなく着てゐた)が別のテイブルを圍んで、コオスは八つか九つであつた。料理はまづいけれども斯んな偏僻な山の中で肉が食へるのでみんな喜んだ。
 食後に虚山君と私は向の精進の村までボートを漕いで見ようと云つてゐたけれども、いつの間にか月が落ちて湖水が暗くなつたから止めにした。さうしてまた窓ぎはに椅子を寄せて明日の旅程についてさつきのつづきを話し合つた。馬で大宮方面へ出ることだけはきまつてゐるが上井出から先は鐵道馬車があるさうだから、馬は上井出まで(六里半とも七里ともいふ)にして、大宮に泊るか、身延へ(輕便鐵道で)出るか、それとも吉原へ行つて泊るか、或ひは富士驛に出て終列車で東京へ歸るか、と云つた風に、皆んなが別別の意見を持つてゐるだけならまだよいが、一人で幾つもの意見を持つてゐる者があるので、小田原評定に終つてしまつた。それで明日《あす》の事を思ひ煩ふ勿れといふことにして十時過寢室に退いた。どの部屋にもベッドは二つあるけれども蚊帳は一つづつしかなかつた。蚊はゐないといふことをミス・六本木が保證した。少くとも蚤はゐなかつた。
 六日。
 よく眠つて六時に起きた。二人の同行者(H君とF君)はもう洋服に着かへてゐた。私は青楓君を起こして、それから向の部屋へ行つて槇村・虚山兩君を起し、大急ぎで食堂にはひつて、トーストで腹をこしらへた。オレンジのジャムがおいしかつた。食堂には朝日が一ぱいにさしこんでゐた。もつと早く起きて今頃は山にかかつてゐなければならぬ頃だと思つた。
 馬を一時間の餘待たせた末、ホテルの裏は道がわるいからといふので、湖水の西端までボートで行くことにして、其處へ馬を廻はして置けと云ひつけた。ホテルを出る時には、昨日着いた時と反對に、日本風の宿屋よりもコンフォタブルだねといふ人があつた。ベッドの寢心地のよかつたのが理由であつた。
 ボートから上つて、雜木林を一丁ほど歩いて、只《と》ある空地《あきち》に出ると、其處に六頭の馬と六人の馬子が私たちを待つてゐた。軍隊生活をしたF君を除く外は馬には皆未經驗と云つてよい者ばかりであつた。皆んながおとなしい馬はどれだと云つた。けれども或る一頭を除く外は皆牝馬であつた。その一頭も去勢馬であつた。青楓君が一番にそれに乘つて、外の者が順順につづいた。殿《しんが》りのF君の外は皆んな口綱を取つてもらつた。
 道がすぐ崖の上に出た。右は山の側面であるけれども、馬は人の氣も察しないで左の崖の端を歩いて行く。そのわけを口取の親爺に聞いて見ると、毎日荷物を運んでゐる馬だから荷物が山の側にさはらないやうに端を歩く癖が出來てゐるのだといふことだつた。や
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