鑿したり、カピトリーノ殿堂を造営したりした。
 しかし、タルクィニィ家はあと一代でつぶれ、ローマは新しい共和制で支配されることとなった。紀元前五〇九年で、その頃からローマ市民は近隣に優越する国家の経営を理想として努力し、中頃(前三九〇年)ゴール人の侵入で一時荒廃に瀕したことはあったけれども、また立ち直って水道を敷設したり、道路を開通したりして文化的施設を進め、一面ギリシア文化の後継者としての自信を持つようになると共に、また一面軍備を拡張して世界経営の野心を抱くようにもなり、ユリウス・ケーサルの斃死(前四四年)を転機として帝政時代に入り、最初の皇帝アウグストゥス・ケーサルの治世はローマの黄金時代として謳歌された。ヴェルギリウス、ホラティウス、オヴィディウス等の詩人の輩出したのもその時代だった。
 その後乱暴な皇帝(ティベリウス、カリグラ、ネロ、等)も出たが、ローマの富強は大したもので、「すべての道はローマへ通じる」といわれたように、ローマは世界の中心となり、ハドリアヌス(十四代目の皇帝)の頃には Roma aeterna(永久のローマ)という言葉ができたほどに、その富強はいつ減退するとも
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