競技場だったのかと思ったら、昔は花園で、形も楕円形だったのが、後に今のような形に改め、一時競馬場に使っていたので、ヒッポドロムスとも呼ばれていたという。下りて見ようかといわれたけれど、疲れてもいたので、やめにした。
四
ドムス・リヴェ(リヴィアの家)のことを書き落してはならない。リヴィアはアウグストゥス帝の皇妃リヴィア・アウグスタで、彼女はアウグストゥスの子供は産まなかったが、皇帝と合意の離婚をし、皇帝の歿後此の家に移り住んでいた。此の家はもとティベリウス(ティベリウス帝の父)の家で、彼女はティベリウスと結婚して二人の子供を産んだ。その一人がアウグストゥスの後を継いで二代目の皇帝となったティベリウスである。彼女はアウグストゥス在世の時は飛ぶ鳥も落すローマ皇帝の皇妃として隠然たる勢力を持っていたことは、アウグストゥスに追放された詩人オヴィディウスが危く財産をも没収される筈であったのを、詩人の妻がリヴィアの袖にすがり、リヴィアの一言で助かったという一事によってもわかる。アウグストゥス歿後は新帝の生母ではあり、その権勢のいかに盛んであったかは容易に想像される。その上、彼女は莫大の富を所有していたことは、後に六代目の皇帝となったガルバが年少気鋭の頃、血縁の関係から彼女の遺産を相続し得たにもかかわらず、敢然としてそれを拒絶したので、ローマ市民に英雄的志操を持つとして拍手されたによっても察せられる。
そういった権勢と富を一身に集めていたリヴィアの住居が見られるということは、史的興味からいっても、また二千年前のローマ上流の生活状態を実感して見ようとする好奇心からいっても、旅行者にとっては此の上もない見ものでなければならない。
家の位置はティベリウスの宮殿の南で、ドミティアヌスの宮殿(ドムス・アウグスティナ)からいうと西に当る窪地で、ネロの地下道に沿って歩いて行くと、道路から石段を六七段下りなければならないように今はなっている。
下りて見ると、小さい柱廊があり、その先は美しいモザイクの敷石で中庭になって居り、いかにも小じんまりして、高貴な人の邸宅とは思えないほどの単純な構造がまず意外だった。事実、ローマ人とても久しく此の家の存在を忘れていたくらいで、一八六八年の発掘の際、或る部屋の片隅から水道の鉛管を掘り出したら、それに名前が彫ってあったので初めてリヴィアの家らしいということになり、研究の結果そうだと認定されたもので、もしその鉛管が目っからなかったら、二千年前の単なる一市民の家として看過されたかも知れなかったのである。鉛管は今もその部屋に保管してあるが、案内人の老人はその上の文字を得意そうに私たちに読んで聞かせた。
部屋は一階に小さいのが四つと、外に物置かとも思われるのが少し離れて一つと、二階にも幾つかあるが、二階には案内されなかったからわからない。何しろ長く土中していたのと、すべての装飾が失われているので、興味は主として割合によく保存されてる壁画の上に注がれるようになっている。
食堂のほかに同じくらいな小部屋が三つ並んでいるが、中央の部屋(応接室だと推定されている)の壁には、窓を描いて、窓から神話の場面が眺められるような趣向が、これは昔喜ばれたものと見え、ポンペイでも同じような種類のフレスコを見た。此処のはアルグスがイオの番をしてると、メルクリウスがイオを助けようとして現れてる場面を見せたものである。鉛管の置かれてあるのはその部屋だった。
その右隣りの部屋の壁には花と果物の花環を幾つも描いて、花環から仮面がぶらさがっていた。左隣りの部屋の壁は茶色の羽目板で張りつめられ、上部の白壁をば赤や緑で縁どり、翼の生えた人物が飛んでるところが描いてあった。クリスト教の天使である筈はないから、クピドーかと思ったが、クピドーが幾人も飛んでるわけもなし、結局何を描いたものだかわからなかった。尤も、二千年前といえども、人間に翼を生やした場合を想像することぐらいは当然あり得たと思われるが。
食堂は上記の右の小部屋から鈎の手に曲った位置にあって、二つの壁画がある。一つは珍らしく風景画で、殿堂のようなものも見え、今一つは果物を盛ったガラスの鉢が二つ描いてあった。
総括的に感じたことは、形や線や色の調子がポンペイの壁画と同一系統であることで、赤々した色彩もポンペイのほど毒々しくなく、緑と黄が主調をなしていることだった。エジプトで三千年前四千年前の壁画のすばらしいのを数々見たから、それより美的に低下してる此の壁画にはそれほど驚かなかったが、それでも二千年前にこの程度の写実的技法を知っていた西洋に、その後同じ主張のすぐれた物が出たのは当然といわなければならぬ。
物置のような今一つの部屋には細長い尻のとんがった壺が幾つも壁に立てかけてあって、
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