それを見る度に私はいつもどうしてあんな安定のないものをこさえたのかと思い、いまだに気になっている。
五
リヴィアの家から程遠くない所にロムルスの墓と称するものがある。大きな石を楕円形に円筒状に畳み上げたもので、ちょっと見ると空井戸かと思われるような形で、そういわれなければ墓とは気づかない。ローマ創始者の骨を埋めてある所として昔から神聖視されて来たということだが、ただ小高い岩山の上に横たわっているきりで、別に何等の礼拝の設備もしてない。
其処から西南へ歩を進めてジェルマルスの区域の崖端に寄った所に、灰華石のアラ(祭壇)と称する壇がある。紀元前一〇〇年頃に改築したのだそうで、SEI DEO SEI DEIVAE SACRUM(無名の神に捧ぐ)と彫ってあるから、その頃すでに名を忘られていた太古の神の祭壇でもあろうか。その辺からは、すぐ下に昔のマクシムス競技場の跡(今のヴィア・デイ・チェルキ)を隔ててアヴェンティーノの山からテベレの下流を眺めるようになって、形勝の地である。
その崖つづきを東の方へ行くと、ドムス・アウグスティナの下に当る中腹にペダゴギウム(学校)と呼ばれる建物の遺物がある。帝政時代に幼年子弟の訓育所に当てられたが、或る時期には牢屋にも使っていた。今では壁に彫り散らした楽書によって有名になっている。いろんな種類の楽書があるが、おもなものは壁を切り取ってテルメ博物館に陳列してある。私の記憶してる最も代表的なものは、豚が十字架の上に磔にされてる戯画で、下に立ってる男が十字架の上の豚に何か言っている。それが果してクリストを揶揄したものだかどうだかわからない(何となればその頃は磔にされる者は非常に多かったから)が、そう取った方が此の戯画の価値が大きくなるだろう。画は釘の先か尖った石かで彫りつけたもので、幼稚な線だが、なかなかおもしろくできている。
一体にパラティーノは形勝の丘陵であり、ローマ発祥の地であったから、殊にパラティウム区域は帝政以前から貴顕大官の住居地となって、クラスス、キケロなども此処に大きな邸宅を構えていた。アウグストゥスの宮殿の如きも以前はホルテンシウスの邸宅だったのを、彼が皇帝になる直前に買い入れて宮殿を築造したのだといわれている。その後、ティベリウス、カリグラ、ドミティアヌス、セプティムス・セヴェルス等の皇帝が宮殿を造営したり改修したりしたことは、すでに述べた如くであるが、ローマを焼いて喜んだネロには、こんな窮屈な山の広さは気に入らなかったと見え、彼は飛び放れてエスクィリーノ山の方へかけて宏壮な「黄金御殿」を建てた。
私たちはパラティーノには長男をつれて二度見物に行った。初めは一九三八年の十一月で、その時長男はまだローマ大学の学生だった。その次は翌年の五月で、その時は彼は卒業してローマ大学の講師になっていた。初めの時は廃墟の間にアカントゥスが大きな濃緑を拡げていた。二度目の時はローマでは到る所で見られる赤い芥子の花が風に吹かれてひらひらしていた。その他多くの花を見たが、銭葵《ぜにあおい》の花が日本のと同じように咲いてるのを珍らしく見た。アカントゥスはポンペイでも見たが、特にパラティーノでそれを強く印象されたのは、コリントスの彫刻家カリマコスの逸話を思い出したからだった。カリマコスはローマに来ていた。或る日、パラティーノの町(ローマ・クァドラタ)を歩いてると、若い娘の墓の上にアカントゥスの葉を盛った籠が供えてあるのを見て、その美しさに目を留め、熱心に写生して図案化し、それで初めて円柱の冠頭を装飾したのがコリントス式の起りだという。或いは単なる伝説かも知れないが、参考のため書き留めて置く。
底本:「世界紀行文学全集 第六巻 イタリア、スイス編」修道社
1959(昭和34)年10月20日発行
底本の親本:「西洋見學」日本評論社
1941(昭和16)年9月10日発行
入力:門田裕志
校正:染川隆俊
2006年7月26日作成
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