、直ぐに偉容を張って謡い了《おわ》ったが、我れながら会心の出来で、殊に、
「乱れ髪乱れ笠、思いはいつか忘れむと」
のあたり、即座に天関《てんかん》地軸を撲落して、唯一人の美人を天の一方に仰ぐような心地がした。祖母も余程感に堪えた様子で、二ツ切りの手拭を顔に押し当てて涙を拭いながら、
「ああ、久し振りで面白かった。死んだ爺さんが生きて御座ったらなあ……。今一つ聞かせて」
と云った。拙者はこの言葉を聞いて正直のところ涙が出そうであった。自分が謡曲を始めてから今日までこれ位に感動を他人に与えた事はないので、全く自他の本懐といい祖母への孝養といい申し分のない大成功であった。ところが扨《さて》、
「今度は何を謡いましょう」
と尋ねて見ると、祖母は又もや涙を拭いながら、
「お前はあの富士太鼓を知っていなさるかの」
と云った。自分は聊《いささ》か驚いて、
「今うたいましたよ、それは」
「何をば」
「その富士太鼓をです」
「ああ、その富士太鼓富士太鼓。妾はようよう思い出した。死んだ爺さんはそれが大好きで、毎日毎日謡い御座った。あれを一ツ」
これには自分も全くうんざりして終《しま》った。真逆《
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