、決して人間界に於てこの声を発せず、換言すれば深山幽谷に去って哀猿悲鳥を共として吟ずるか、もしくは環海の孤島に退いて狂瀾怒濤に向って号叫すべしである。思えば吾輩も飛んでもない道楽を始めたものだ。

     謡曲の廃物利用の事

 この、下手謡曲に限って聞かせたい、又その相手は聞きたくないという心理状態は、近頃のように謡曲隆盛の昭代にその到る処深刻に又痛切に繰り返し繰り返し経験されて、恰《あたか》も欧州戦前のバルカンの如く、日露戦前の竜岩浦《りゅうがんぽ》の如く、如何なる名外交家と雖《いえど》も後《しりえ》に瞠若《どうじゃく》たらしむる底《てい》の難解問題となっているのであるが、併し又世上にはこの外交上の大難問題を丸一《まるいち》の大神楽《だいかぐら》の如く自由に操縦して、逆に外交上の便宜に利用し、銀山鉄壁の如き上官、重役の威厳を指呼の間に土崩瓦解せしめ、又は槓杆《てこ》でも動かぬ長尻の訪客を咄嗟の間に紙片のように掃き出して終《しま》うという辣腕《らつわん》家が時あってか出頭して、人天の眼を眩ぜしむるには驚かされるのである。
 正に毒草を変じて薬となし、糞土を烹《に》て醍醐をなす底《て
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