もちで、直ちに第三発の十六|吋《インチ》を撃ち出す。
「ハハア。それはそうでしょう、まだ妙味を御存じないから。あの声というものは一朝一夕で出る声ではありません。他の音曲では浮いた声があっても差し支えありませぬが、謡曲では決してそんな声を用いる事を許しません。ですから他の音曲は面白くても賤《いや》しく、謡曲は面白くなくても高尚なのです。この声を出すには、先ずこんな風に正座して身心を整斉虚名ならしめ、気海|丹田《たんでん》に力をこう籠めて全身に及ぼし、心広く体胖《たいゆた》かに、即ち至誠神明に通ずる底《てい》の神気を以て朗々と吟誦するのです。ですから一句の裡《うち》に松影|婆娑《ばさ》たる須磨の浦を現わし、一節の裡に万人の袖を濡らす事が出来るのです」
 例えばこういう風に直ぐにも始めそうに身構えをして、相手の顔をグッと睨む。ここが危機一髪、相互の生死の分れるところで、折角の深い交際が疎《おろそ》かになったり、恩義ある人に悪感を抱かせたり、又は大切の得意を失策《しくじ》ったりして、後悔|臍《ほぞ》を噬《か》む共及ばぬような大事件が出来《しゅったい》するその最初の一刹那なのである。もしそれ掣電
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