くの間暗黒の海上を、陸地らしい方向へ一生懸命に泳いでいるつもりであったが、やがて、腕に火が付いたような感じがしたのでビックリして眼を開いてみると、意外にも私は、一等船室らしい見事なベッドの中に、リンネルの寝間着《ねまき》に包まれて寝かされている。その二の腕に出来た原因不明の擦過傷《すりきず》を、黒いアゴヒゲを生《は》やした医者らしい男が、
「……静かに……静かに……」
 と云いながら叮嚀に拭き浄めているのであった。
 その男が使う独逸《ドイツ》ナマリの英語は実にわかりにくくて弱った。しかし大体の要点だけは、暫く話しているうちにヤッと呑み込めた。
 この男はこの船の船医で、ブーレーというミュンヘン出のドクトルであった。船は昨日《きのう》香港を出て来たばかりのクライデウォルフ号という七千|噸《トン》級の独逸汽船で、長崎から横浜へまわる客船《メイルボート》であったが、今朝《けさ》早く浪《なみ》の間を転々《ロール》している私を助け上げてみると、宝石や札束を詰めた自転車のチューブを、胴体一面に巻き付けていたので、皆ビックリさせられた。しかし相当の身なりをしていたし、領事の名刺や手紙などを、旅行免
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