処を見上げた。寂《さび》しい霜枯《しもが》れの草に蔽《おお》われた赤土の斜面と、その上に立っている小さな、黒い人影を予想しながら……。
 ところが現在、彼の眼の前に展開している堀割の内側は、そんな予想と丸で違った光景をあらわしていた。見渡す限り草も木も、燃え立つような若緑に蔽われていて、色とりどりの春の花が、巨大な左右の土の斜面の上を、涯《は》てしもなく群がり輝やき、流れ漾《ただよ》い、乱れ咲いていた。線路の向うの自分の家を包む山の斜面の中程には、散り残った山桜が白々と重なり合っていた。朗《うら》らかに晴れ静まった青空には、洋紅色《ローズマダー》の幻覚をほのめかす白い雲がほのぼのとゆらめき渡って、遠く近くに呼びかわす雲雀《ひばり》の声や、頬白《ほおじろ》の声さえも和《なご》やかであった。
 ……その中のどこにも吾児《わがこ》らしい声は聞こえない……どこの物蔭にも太郎らしい姿は発見されない……全く意外千万な眩《ま》ぶしさと、華やかさに満ち満ちた世界のまん中に、昔のまんまの見窄《みすぼ》らしい彼自身の姿を、タッタ一つポツネンと発見した彼……。
 ……彼がその時に、どんなに奇妙な声を立てて泣 
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