人の顔がズラリと並んで覗いていた。口々に和蘭《オランダ》語で叫んだ。
「何だ貴様は……何だ何だ……」
 千六はもう長崎に来てから、各国の言葉に通じていた。その中《うち》でも和蘭《オランダ》語は最も得意とするところであった。
「福昌号から荷物を受取りに来ました。この頃、長崎の役人の調べが急に八釜《やかま》しくなって、仕事が危険《やば》くなりましたのに、この風で船が出なくなって、皆青くなっているところです。支那人はみんな臆病ですから、私が頼まれて四百五十斤の小判を積んで、嵐を乗切って来たのです。どうぞ荷物を渡して下さい」
 と殆んど疑問の余地を残さないくらい巧妙に、スラスラと説明した。
「フーム。そうかそうか。それじゃ上れ」
 と云うと船から梯子《はしご》を卸《おろ》してくれたので千六は内心ビクビクしながら船頭と二人で上って行った。そうして船長室で船長に会って葡萄酒と珈琲《コーヒー》と、見た事もない美味《おいし》い果物を御馳走になった。
 千六は福昌号の信用の素晴らしいのに驚いた。積んで来た十個の味噌樽が全部、ロクに調べもせずに和蘭《オランダ》船に積込まれて、代りに夥しい羅紗《ラシャ》とギヤマンの梱包が、玄海丸に積込まれた。まだ羅紗と、絹緞《けんどん》と翡翠《ひすい》の梱包が半分以上残っているが、この風と玄海丸の船腹では積切れまいし、こっちも実はこの風が惜しいばかりでなく、非常に先を急ぐのだから、向うの海岸に卸しておく。今一度長崎へ帰って、風を見てから積取りに来いと云って、千六と船頭を卸すと、和蘭《オランダ》船はその夜のうちに、白泡を噛む外洋に出て行ってしまった。
 アト見送った千六は慌しく船頭の耳に口を寄せた。
「直ぐにこの船を出いておくれんか。この風を間切《まぎ》って呼子《よぶこ》へ廻わってんか。途中でインチキの小判と気が付いて引返やいて来よったら叶《かな》わん。和蘭陀《オランダ》船は向い風でも構いよらんけに……呼子まで百両出す。百両……なあ。紀国屋文左衛門や。道程《みちのり》が近いよって割合にしたら千両にも当るてや、なあ。男は度胸や……。あとはコンタの腕次第や。酒手を別にモウ五十両出す……」
 玄海丸は思い切って碇《いかり》を抜いた。それこそ紀国屋文左衛門式の非常な冒険的な難航海の後《のち》、翌る日の夕方呼子港へ這入った。そこで玄海丸を乗棄てた千六は巧みに役人の眼を眩《くら》まして荷物を陸揚して、数十頭の駄馬に負わせた。陸路から伊万里《いまり》、嬉野《うれしの》を抜ける山道づたいに辛苦艱難をして長崎に這入ると、すぐに仲間の抜荷《ぬけに》買を呼集め、それからそれへと右から左に荷を捌《さば》かせて、忽ちの中《うち》に儲けた数万両を、やはり尽《ことごと》く為替にして大阪の三輪鶴《みわづる》に送り付けた。

 千六のこうした仕事は、その当時としては実に思い切った、電光石火的なスピード・アップを以て行われたのであった。
 果して、そのあとから正直な五島、神之浦《こうのうら》の漁民たちが海岸にコンナ荷物が棄ててありましたと云って、夥しい羅紗や宝石の荷を船に積んで奉行所へ届出たというので長崎中の大評判になった。これこそ抜荷の取引の残りに相違ないというので与力、同心の眼が急に光り出した。結局、五島の漁夫《りょうし》達が見たという○に福の字の旗印が問題になって、福昌号に嫌疑がかかって行ったが、その時分には千六は最早《もはや》長崎に居なかった。仲間の抜荷買連中と共に逸早《いちはや》く旅支度をして豊後国、日田《ひた》の天領に入込み、人の余り知らない山奥の川底《かわそこ》という温泉に涵《ひた》っていた。
 千六はそれから仲間に別れて筑前の武蔵《むさし》、別府、道後と温泉まわりを初めた。たとい金丸長者の死に損いが、如何に躍起となったにしたところが、とても大阪三輪鶴の千両箱を三十も一所《いっしょ》に積みは得《え》せまい。その上に銀之丞殿の蓄えまで投げ出したらば、松本楼の屋台骨を引抜くくらい何でもあるまい。もし又、万一、それでも満月が自分を嫌うならば、銀之丞様に加勢して、満月を金縛りにして銀之丞様に差出しても惜しい事はない。去年三月十五日の怨恨《うらみ》さえ晴らせば……男の意地というものが、決してオモチャにならぬ事が、思い上がった売女《ばいた》めに解かりさえすれば、ほかに思いおく事はない。おのれやれ万一思い通りになったらば、三日と傍へは寄せ附けずに、天の橋立の赤前垂《あかまえだれ》にでもタタキ売って、生恥《いきはじ》を晒《さら》させてくれようものを……という大阪町人に似合わぬズッパリとした決心を最初からきめていたのであった。

 京都に着いても満月の事は色にも口にも出さず。ひたすらに相手の行衛《ゆくえ》を心探しにしていた銀之丞、千六の二人は期せずして祇園の茶屋で顔を合わせた。お互いに無事を喜び合い、今までの苦心談を語り合い、この上は如何なる事があっても女の情に引かされまい。満月の手管に乗るような不覚は取るまい。必ず力を合わせて満月を泥の中に蹴落し、世間に顔向けの出来ぬまで散々に踏み躪《にじ》って京、大阪の廓雀《くるわすずめ》どもを驚かしてくれよう。日本中の薄情女を震え上らせて見せようでは御座らぬか……と固く固く誓い固めたのであった。
 何はともあれ善は急げ。二人がこうして揃った上は便々《べんべん》と三月十五日を待つ迄もない……というので、二人は顔を揃えて島原の松本楼に押し上り、芸妓《げいしゃ》末社を総上げにして威勢を張り、サテ満月を出せと註文をすると、慌てて茶代の礼を云いに来た亭主が、妙な顔をして二人を別の離《はなれ》座敷に案内した。そこで薄茶を出した亭主の涙ながらの話を聞いているうちに、二人は開いた口が塞がらなくなったのであった。
 満月は、モウこの世に居ないのであった。
「お聞き下されませ去年の春。あの花見の道中の道すがら満月が、昔なじみのお二方《ふたかた》様に、勿体ない事を申上げて、お恥かしめ申上ました事は、いつ、誰の口からともなく忽ちの中《うち》に京、大阪中の大評判になりましたもので……。
 ……ところがその評判につれて、お二人様のお姿が、京、大阪界隈にフッツリと見えなくなりますると、御老人の気弱さからでも御座りましょうか。金丸大尽様が何とのう御周章《おうろたえ》になりまして、お二人様から、どのように満月が怨まれていようやら知れぬ。満月と自分の身体《からだ》に万一の事がないうちにと仰言るような仔細《ことわり》で、こちらからお願い申上げまする通りのお金を積んで、満月ことを御身請《おみうけ》なされまして、嵯峨野の奥の御邸《おやしき》を御造作なされ変えて、お城のように締りの厳重な一廓を構え、その中に美事な別荘好みのお家敷《やしき》を作り、水を引き、草木《そうもく》を植えて、満月をお住まわせになりました。
 ……それは見事なお構えで御座いました。お客にお出でになりましたお江戸の学者、鼻曲山人《はなまがりさんじん》様も、お筆に残しておいでになりまする。私どもが御機嫌伺いに参りましても根府《ねぶ》川の飛石《とびいし》伝い、三尺の沓脱《くつぬぎ》は徳山|花崗《みかげ》の縮緬《ちりめん》タタキ、黒縁に綾骨《あやぼね》の障子《しょうじ》。音もなく開きますれば青々とした三畳敷。五分|縁《べり》の南京更紗《なんきんさらさ》。引ずり小手《ごて》の砂壁。楠の天井。一間二枚の襖は銀泥《ぎんでい》に武蔵野の唐紙。楽焼《らくやき》の引手。これを開きますると八畳のお座敷は南向のまわり縁。紅カリンの床板、黒柿の落し掛。南天の柱なぞ、眼を驚かす風流好み。京中を探しましても、これ程のお座敷はよも御座いますまい。満月どのの満足もいかばかりかと存じておりましたが、満つれば欠くる世の習いとか。月にむら雲。花に嵐の比喩《たとえ》も古めかしい事ながら、さて只今と相成りましては痛わしゅうて、情のうて涙がこぼれまする事ばかり……。
 何をお隠し申しましょう。満月ことはまだ手前の処で勤めに出ておりまする最中から、重い胸の疾患《やまい》に罹《かか》っておりましたので、いずれに致しましても長い生命《いのち》ではなかったので御座いまする。されば金丸大尽様からの御身請の御話が御座りました時にも、手前の方から商売気を離れまして、この事を残らず大尽様にお打明け致しまして、かかり付けのお医者様順庵様までも御同席願いました上で、かような不治の疾患《やまい》の者を御身請なぞとは勿体ない。満月ことを左程|御贔負《ごひいき》に思召《おぼしめ》し賜わりまするならば、せめて寮へ下げて養生致させまする御薬代なりと賜わりましたならば、当人の身に取り、私どもに取りまして何よりの仕合わせに御座りまする。所詮、行末の計られませぬ病人を、まんろくな者と申しくるめて御引取願いましては商売冥利に尽きますると平に御宥免《おゆるし》を願いましたが、流石《さすが》に長者様とも呼ばるる御方様の御腹中は又格別なもので、さては又あれが御老人の一徹とでも申上るもので御座いましょうか、いやいやそれは要らざる斟酌。楼主《そなた》の心入れは重々|忝《かたじけ》ないが、さればというてこのまま手を引いてしもうてはこっちの心が一つも届かぬ。商売は商売。人情は人情じゃ。皿茶碗の疵物《きずもの》ならば、疵《きず》のわかり次第棄てても仕舞《しま》おうが、生きた人間の病気は、そのようなものと同列には考えられぬ。袖振り合うも他生《たしょう》の縁とやら。それほどの病気ならばこちらへ引取って介抱しとうなるのが人情。まさかに満月の身体《からだ》を無代価《ただ》で引取る訳には行くまいと仰言る、退引《のっぴ》きならぬお話。こちらもその御執心と御道理に負けまして、満月をお渡し申上げたような次第で御座りまする。……が……。
 ……さて満月さんをお引取りになりましてからの大尽さまのお心づくしというものは、それはそれは心にも言葉にも悉《つ》くされる事では御座いませなんだ。京大阪の良いお医者というお医者を尋ね求め、また別に人をお遣わしなされて日本中にありとあらゆる癆※[#「やまいだれ+亥」、第3水準1−88−46]《ろうがい》のお薬をお求めになりました。そのほか大法、秘法の数々、加持《かじ》、祈祷のあらん限り、手をつくし品を換えての御介抱で御座いましたが、定まる生命《いのち》というものは致し方のないもので、去年の夏もようように過ぎて秋風の立ちまする頃、果敢《はか》なくも二十一歳を一期《いちご》としてこの世の光りを見納めました。その夜は如何ようなめぐり合わせでも御座りましつろうか、拭うたような仲秋の満月の夜で御座いましたが、重たい枕を上げる力ものうなりました人間の満月どのは、おろおろしておいでになりまする金丸様のお手と、駈付けて参りました私の手を瘠せ枯れた右と左の手に力なく振って、庭の面《おもて》にさらばう虫の声よりも細々とした息の下に、かような遺言をなされました。
 ……これまでの方々《かたがた》様の御心づくし、何と御礼を申上げましょうやら。つたないこの身に余り過ぎました栄耀栄華《えいようえいが》。空恐ろしゅうて行く先が思い遣られまする計《ばか》りで御座います。ただ、おゆるし下されませ。金丸様と、御楼主様の御恩のほどは生々世々《しょうじょうせぜ》犬畜生、虫ケラに生れ代りましょうとも決して忘れは致しますまい。
 ……わたくし幼少《おさな》い時より両親《ふたおや》に死に別れまして、親身《しんみ》の親孝行も致しようのない身の上とて、この上はただ御楼主様《ごないしょさま》の御養育の御恩を、一心にお返しするよりほかに道はないと、そればかりを楽しみに思い詰めて成長《おおき》くなりましたところへ、肉親の親から譲られましたこの重病。いずれ長い寿命はないものと思い諦らめましてからというもの、一も御店のため、二も御楼主様《ごないしょさま》への御恩返しとあらゆる有難い御嫖客様《おきゃくさま》を手玉に取り、いく程の罪を重ねましたことやら。それだけでも来世は地獄に堕ちましょう。その中《うち》にも忘れかねま
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