たが、それでも女色にだけは決して近付かなかった。去る金持後家に見込まれて昼日中、引手茶屋に引上げられ、小謡いがまだ二三番と済まぬうちに脂切《あぶらぎ》った腕を首にさし廻わされた時なぞ、血相をかえて塩鰯をひねくりまわし、後退《あとしざ》りして逃げて来るという、世にも身固い、涙ぐましい月日が、いつの間《ま》にか夢のように流れて、早や笑うてくれる鬼もない来年の正月。約束の三月も程近い銀之丞が二十五の春となった。

 こうなれば最早《もはや》、致し方もない。僅か一年の間に大金を作ろうなぞと約束したのがこっちの愚昧《おろか》であった。浮世の風に吹き晒《さら》されてみればわかる。やはり他人《ひと》の云う通りに世の中は、思うたほど甘いものではないらしい。
 しかし約束は約束なれば是非に及ばぬ。満月の道中に間に合うように故郷へ帰らずばなるまい。播磨屋千六の顔を見ずばなるまい。千六は町人の事なれば、一年の間に一万両ぐらい儲けまいものでもない。もっとも町人の事なれば、そうなってみると、おのが身代が惜しゅうなって、気が摧《くじ》けていまいとは限らぬが、もしも、さような事になれば一文無しのこっちの方が、却《か
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