しく起直って、露わな乳の下へ掌《て》を当てた。二十二三であろうか。ボッチャリした下|腮《あご》に襟化粧が残って、唇が爛れたように紅《あか》い。
「きょうは暖《ぬく》いけになあ」
妹の七代は仰向《あおむけ》に長くなったまま振向いた。十八九であろうか。キリキリとした目鼻立ち、肉付きである。
「いいえ。今がた早馬の音が涼松《すずまつ》の方から聞こえたけに……」
「どこかの若殿の責め馬で御座んしょ」
「いいえ。あたしゃ、きょうのお出ましが気にかかってならぬ」
「ホホ。姉さんとした事が。考えたとてどうなろうか。……おおかた妾たちを追い出せというような、親戚がたの寄合いでがな御座んしょう……ホホ……」
「ほんにお前は気の強い人……」
「……妾たちの知った事じゃ御座んせぬもの。それじゃけに事が八釜《やかま》しゅうなれば、わたし達を連れて薩州へ退《の》いて見せると、大殿は言い御座ったけになあ」
「あれは真実《ほんと》な事じゃろうかなあ、七代さん」
「大殿の御気象ならヨウわかっとります。云うた事は後へ退《ひ》かっしゃれんけになあ」
「稚殿《ちいどの》も連れて行かっしゃろうなあ。その時は……なあ……」
「オホホ。姉さんていうたら何につけ彼《か》につけ稚殿《ちいどの》の事ばっかり……」
「笑いなんな。あたし達の行末が、どうなる事かと思うとなあ。タッタ一度で宜《え》えけに、あげな可愛い若殿をばシッカリと抱いて寝てみたいと思うわいな。そう思うと妾《わたし》ゃ胸騒ぎがするわいな」
「ホホホホホホホ。姉さんの嫌《いや》らしさ。まあだ十四ではないかな。与一《よっ》ちゃまは……」
「いいえ。色恋ではないわいな。わたしゃシンカラ与一《よっ》ちゃんが可愛《いと》しゅうて可愛《いと》しゅうて……」
「オホホホホ。可笑《おか》しい可笑しい。ハハハハ……」
「ようと笑いなさい。色恋かも知れん。年寄のお守《も》りばっかりしとると若い人が恋しゅうなる。子供でもよい。なあ七代さん。ホホホ……」
「ホホホホ。ハハハハ。アハハハハハハハ」
二人の女が他愛もなく笑い転げている真正面の細骨障子に、音もなく小さな人影が映《さ》した。脇差を提《ひっさ》げた与一の前髪姿であった。
「まあ。与一《よっ》ちゃま。噂をすれば影……」
と七代が頬をパッと染《そめ》て起き上りながら、障子を引き明けた。そこには鬢《びん》も前髪もバラバラに乱した与一昌純が、袴の股立《ももだち》を取って突立っていた。塙代家の家宝、銀|拵《ごしら》え、金剛兵衛盛高《こんごうへえもりたか》、一尺四寸の小刀を提《ひっさ》げて、泥足袋のまま茫然と眼を据えていた。
「アレ。与一《よっ》ちゃま。どうなされました」
とお八代がしどけない姿のまま走り寄ったが、その間髪を容《い》れず……
「小母様……御免ッ……」
と叫ぶ与一の声と共に、眩しい西日の中で白い冷たい虹が翻《ひるが》えった。はだかったマン丸いお八代の右肩へ、抜討ちにズッカリと斬り込んだ。血飛沫《ちしぶき》が障子一面に飛んで、白い乳の珠《たま》がトロトロと紅い網に包まれた。
「ア――ッ」
とお八代が腸《はらわた》の底から出る断末魔の声を引いた。そのまま、
「……与一《よっ》ちゃまアッ……」
と抱き付こうとする胸元を、一歩|退《しりぞ》いた与一がズップリと一刺し。
「……ヨ……よっちゃまアアアア……」
と虫の息になったお八代はバッタリと横たおしになった。
七代はしかし声も立てなかった。身を翻えして夜具の大波を打つ座敷へ走り込んだ。高枕と括《くく》り枕を次から次と与一に投げ付けた。枕元の懐紙を投げた。床の間の青磁の香炉をタタキ付けた。ギヤマンの茶器を銀盆ごと投げ出した。九谷の燗瓶を振り上げた。皿、鉢、盃洗《はいせん》、猫足《ねこあし》膳などを手当り次第に打ち付けた。
与一は右に左に翻《かわ》して血刀を突き付けた。
「与一《よっ》ちゃま。堪忍……かんにんして……妾《わたし》ゃ知らん。知らん。何にも知らん。姉さんが悪い姉さんが悪い」
「畜生ッ……外道ッ……」
と与一は呼吸を喘《はず》ませた。
「逃がすものか……」
「アレエッ。誰か出会うてッ。与一《よっ》ちゃまが乱心……ランシイ――ンン……」
「おのれッ……云うかッ……おのれッ……」
東の縁側から逃げ出した七代の乱れた髻《もとどり》に、飛鳥のごとく掴みかかった与一は、そのまま飛石《とびいし》の上をヒョロヒョロと引き擦《ず》られて行った。金剛兵衛《こんごうへえ》を持直す間《ま》もなく泉水の側まで来た。脱げかかった帯と長襦袢に足元を絡まれた七代はバッタリと低い石橋の上に突っ伏した。その後髪を左手に捲き付けた与一は、必死と突伏し縮める白い頸筋をグイグイと引起しざま、
「……エイッ……エイッ……」
と片手なぐに斬り放しにかかった。七代は両手を泉水に突込んだまま一太刀|毎《ごと》に穢《きたな》い死に声を絞った。
五
与一は二つの女首を泉水に突込んで洗った。長襦袢の袖に包んで左右に抱えた。真紅《まっか》な足袋|跣《はだし》のまま離れ座敷を出ると、植込みの間に腰を抜かしている若党勇八を尻目に見ながら、やはり足袋跣のまま、悠々と玄関脇の仏間へ上って来て、低い位牌壇の左右に二つの首級《くび》を押し並べた。赤い袖の頬冠りをした女首が、さながらに奇妙な大輪の花を供えたように見えた。
与一はそこで汚れた足袋を脱いで植込みの中へ投げた。それから台所の雑巾を取って来て、縁側から仏間へ続く血と泥の足跡を拭《ぬぐ》い浄《きよ》めた。水棚へ行って仕舞桶《しまいおけ》で顔や両手をよく洗って、乾いた布巾《ふきん》で拭い上げた。それから水をシタタカに飲んで玄関の方へ行きかけたが又、思い出したように仏間へ引返して線香を何本も何本も上げた。
血の異臭と、線香の芳香《かおり》が暗い部屋の中に息苦しい程みちみちた。その中に座り込んだ与一は仔細らしく両手を合わせた。
「開けい、開けい……誰も居《お》らぬか……」
表戸を烈しくたたく音がすると、与一はキッと身を起した。仏壇の折れ障子をピッタリと閉めて、一散に玄関に走り出た。有り合う竹の皮の草履を突かけて出ると、式台の脇柱に繋いだ西村家の赤馬が前掻きするのを、ドウドウと声をかけながら表門の閂《かんぬき》を外した。外には紋服の与九郎昌秋が太刀《たち》提《ひっさ》げて汗を拭いていた。
「おお与一か。昼日中《ひるひなか》から門を閉《た》てて……慌てるな与一……ヤヤッ、何か斬ったナ……」
と眼を丸くして見上げ見下ろす祖父の手首を与一は両手で無手《むず》と掴んだ。
「何事じゃ……どうしたのじゃ……」
と急《せ》き込んで尋ねる昌秋を、与一は玄関から一直線に仏間に案内した。仏壇の障子を颯《さっ》と左右に開いて二つの首級を指しながら、キッと祖父の顔を仰ぎ見た。
「ウ――ムッ。これはッ……」
ギリギリと眼を釣り上げた昌秋は左手に提《ひっさ》げた延寿国資《えんじゅくにすけ》の大刀をガラリと畳の上に取落した。仏壇の前にドッカリと安座《あんざ》を掻いて、両手を前に突いた。肩で呼吸をしながら与一をかえりみた。
「……わ……われが斬ったか……与一……」
与一はその片脇にベッタリと座りながら無造作に一つうなずいた。唇を切れる程噛んだまま昌秋の顔を凝視した。
昌秋の顔が真白くなった。忽ちパッと紅《あか》くなった。そうして又見る見る真青になった。
「お祖父《じい》様……お腹を召しませ」
与一は小さな手を血だらけの馬乗袴の上に突っ張った。
「……扨《さて》はおのれッ……」
昌秋の血相が火のように一変した。坐ったまま延寿国資の大刀を引寄せて、悪鬼のように全身をわななかせた。
与一はパッと一尺ばかり辷《すべ》り退《しりぞ》いた。居合腰のまま金剛兵衛の鯉口を切った。キッパリと言い放った。
「与一の主君は……忠之様で御座りまするぞッ」
「……ナ……ナ……何とッ……」
「主君に反《そ》むく者は与一の敵……親兄弟とても……お祖父《じい》様とても許しませぬぞッ……」
「おのれッ……小賢《こざか》しい文句……誰が教えたッ……」
「お父《とと》様と……お母《かか》様……そう仰言《おっしゃ》って……私の頭を撫で……亡くなられました……」
与一がオロオロ声になった。両眼が涙で一パイになった。ガラリと金剛兵衛を投げ出して昌秋の右腕に取り縋《すが》った。
「……与一を……お斬りなされませ。お斬り下さいませ。そうして……薩摩の国へ、お出でなされませ。のう……お祖父《じい》様……」
「……ウムッ……ウムッ……」
昌秋の唇が枯葉のようにわなないた。涙が両頬の皺をパラパラと伝い落ちた。太刀《たち》の柄に手をかけたまま、大盤石に挟まれたように身をもだえた。
「ええッ。手を離せッ……このこの手を……」
「……ハイ……」
と与一は素直に手を離して退《しりぞ》いた。斬られる覚悟らしく両手を突いて、うなだれた。
「……その上……その上……お祖父《じい》様は御養子……モトは西村家のお方ゆえ、御一存でこの家を、お潰しになってはなりませぬ。この家の御先祖様に対して、なりませぬ。……潰すならば与一が潰しまする。……与一は真実《まっこと》この家の血を引いたお祖母《ばあ》様の孫……」
「ウーム。その文句も父《とと》様|母《かか》様が言い聞かせたか」
延寿国資を静かに傍《かたわら》に差し置いた昌秋は、涙を払って坐り直した。平常のように眼を細くして孫の姿を惚れ惚れと見上げ見下ろした。与一は突伏したまま頭を強く左右に振った。
「与一が幼稚《おさな》時に人から聞いておりまする。左様《さよう》思うて、きょうも小母様を斬りました。この家の名折れと承わりましたゆえ」
「ウムッ。出来《でか》いたッ」
と昌秋は膝を打った。両眼からホウリ落ちる涙を払い払い、暫くの間、黒い天井を仰いでいたが、そのうちにフト思い付いたように、仏壇の前にニジリ寄って線香を一本上げた。恭《うやうや》しく礼拝を遂げた。威儀を正して双肌《もろはだ》を寛《くつろ》げた。
「与一ッ」
「エッ……」
「介錯せいッ」
「ハッ……お祖父《じい》様……待ってッ。与一を斬ってッ……」
「未練なッ……退《の》けッ……」
右肘で弾ね退《の》けられた与一は、襖の付根までコロコロと転がった。その間に昌秋は、袖に捲いた金剛兵衛をキリキリと左に引きまわして片手を突いた。喘《あえ》ぎかかる息の下から仏壇を仰いだ。
「塙代家、代々の御尊霊。お見届け賜わりましょう。たとい私故に当家は断絶致しましょうとも……かほどの孫を……孫を持ちました……私の手柄に免じて……お許しを……御許し賜わりまするよう……」
与一は襖の付根に丸くなったまま泣き沈んでいた。
「与一ッ……」
「ハイ……ハイ……」
「介錯せい。介錯……」
「……………」
「未練な。泣くかッ」
「ハイ……ハイ……」
「祖父の白髪首級《しらがくび》を、大目付に突き付けい。女どもの首と一所に……」
「……ハッ……」
「それでも許さねば……大目付を一太刀怨め……斬って……斬って斬死にせい……ブ……武士の意気地じゃ……早よう……早ようせい」
「……ハ……ハイ……」
六
忠之は上機嫌であった。
「ホホオ……その十四になる小伜がのう……」
大目付尾藤内記は紋服のまま、お茶室の片隅に平伏した。
「御意に御座りまする。祖父の昌秋と二人の側女《そばめ》の首級を三個、つなぎ合わせて、裸馬の首へ投げ懸けて、先刻手前役宅へ駈け込みまして、祖父の罪をお許し下されいと申入れまして御座りまする」
「……まあ……何という勇ましい……いじらしい……」
と炉の前で濃茶の手前を見せていたお秀の方が、感嘆の余りであろう。耳まで真赤に染めて眼をしばたたいた。忠之も嘆息した。
「フーム。途方もない小僧が居れば居るものじゃのう。昔話にも無いわい。それでその方は家名継続を許したか」
「ハハ。ともかくも御前にまいって取《とり》なして遣《つか》わす故、控えおれと申し聞けまして、そのまま出仕
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