致しましたが」
「……たわけ奴がッ……」
と忠之は突然に大喝した。お秀の方は茶碗を取落しそうになった。
「……何で……何でそのような気休めを申した。その方の言葉に安堵した小伜が……許されたと思うて安心したその与一とやらが、その方の留守中に切腹したら何とするかッ。切腹しかねまじい奴ではないか、それ程の魂性ならば……馬鹿奴がッ……何故《なぜ》同道して引添うて来ぬか、ここまで……」
「ハハッ。御意の程を計りかねまして、次の間に控えさせておりまするが……」
「何と……次の間に控えさせておると申すか」
「御意に御座りまする」
「それならば何故早く左様《さよう》言わぬか。大たわけ奴が。ここへ通せ……ここへ……」
「ハハッ。何卒《なにとぞ》……御憐愍をもちまして、与一ことお許しの儀を……」
「エエわからぬ奴じゃ。余が手討にばしすると思うかッ。それ程の奴を……褒美をくれるのじゃ。手ずから褒美を遣りたいのじゃ。わからぬか愚か者奴がッ……おお……それから納戸の者を呼べ……納戸頭を呼べ……すぐに参《ま》いれと申せ」
長廊下が一しきりバタバタしたと思うと、お納戸頭の淵老人と尾藤内記の間に挟まるようにして与一昌純が這入って来た。髪を改めてチャンとした紋服袴を着けていた。
お秀の方の背後に居並ぶ側女の間に微かなサザメキが起った。
「……まあ……可愛らしい……まあ……」
与一は悪びれもせずに忠之の真ン前に進み寄って両手を突いた。尾藤内記と淵老人が背後からその両袖を控えた。
「お眼通りであるぞ」
「イヤイヤ。固うするな。手離いて遣れ」
「ハハッ。不敵の者の孫で御座りまするによって、万一御無礼でも致しましては……」
「イヤイヤ。要らざる遠慮じゃ。余に刃向う程の小伜なればイヨイヨ面白い。コレ小僧。与一とやら。顔を見せい。余が忠之じゃ。面《つら》を見せい」
与一は顔を上げると小さな唇をジッと噛んだ。上眼づかいに忠之を睨み上げた。
「ホホハハハ。なかなかの面魂じゃ。近頃|流行《はやり》の腰抜け面《づら》とは違うわい。ヨイ児《こ》じゃ、ヨイ児じゃ。近う参いれ。モソッと寄りゃれ。小粒ながら黒田武士の亀鑑《てほん》じゃ。ハハハ……」
「サア、近うお寄りや」
お秀の方が取做《とりな》し顔に声をかけたが、与一はジロリと横目で睨んだまま動かなかった。のみならず頬の色を見る見る白くして、眦《まなじり》をキリキリと釣り上げた。言い知れぬ不満を隠しているかのように……女の差出口《さしでぐち》が気に入らぬかのように……。
一座がシインとなった。しかし忠之は上機嫌らしく淵老人に問うた。
「どこか近い処に、よい知行所は無いかのう」
「ハッ。新知《しんち》に御座りまするが」
「ウム。塙代は三百五十石とか聞いたのう。今二百石ばかり加増して取らせい」
「ハハッ。有難き仕合わせ……」
大目付と淵老人が平伏したに連れて、お秀の方と側女《そばめ》までが一斉に頭を下げた。与一に対する満腔の同情がそうさせたのであろう。
「二村、天山の二カ村が表高百五十石に御座りまするが、内実は二百石に上りまする」
「ほかに表高二百石の処は無いか」
「ほかには寸地も……」
「ウム。無いとあらば致し方もない。二村、天山は良い鷹場じゃ。与一を連れて鶴を懸けに行こうぞ。きょうから奥小姓にして取らせい」
側女たちが眼を光らせて肩を押し合った。嬉しい……という風に……。
「硯箱を持て……墨付を取らする」
お秀の方が捧ぐる奉書に忠之は手ずから筆を走らせた。
「コレ与一……昌純と云うたのう。墨付を遣わすぞ」
「忝《かたじ》けのう御座りまする」
与一は何やら一存ありげに肩を怒らして押《おし》戴いた。同時に一同が又頭を下げた。
忠之は与一の顔をシゲシゲと見た。与一も忠之の顔をマジマジと見上げた。
「フフム。まだ足らぬげじゃのう。面《つら》を膨《ふく》らしおるわい。知行なぞ好もしゅうないかの。子供じゃけにのう。ハッハッ……コレ小僧。モソッと褒美を遣りたいがのう。この忠之は貧乏でのう……。ウムウム。よいものを取らする。その紙と筆を持て……」
淵老人はハッとしたらしく顔色を変えて忠之を仰いだ。この上に知行を分けられては、お納戸の遣繰《やりくり》が付かなくなるからである。そう思ってハラハラしいしい皆と一所に一心に忠之の筆の動きを見上げているうちに、奉書の紙の上に忠之自慢の三匹|馬《ば》の絵が出来上った。
「コレ与一。余が絵を描いて取らする。ハハ。上手じゃろうがの……その上の讃《さん》を読んでみい」
押し戴いた紙を膝の上に伸ばした与一は、ハッキリした声で走書《はしりがき》の讃を読んだ。
「ものの夫《ふ》の心の駒は忠の鞭……忠の鞭……孝の手綱ぞ……行くも帰るも……」
「おお……よく読んだ。よく読んだ。その忠の一字をその方に与える。余の諱《いみな》じゃ。今日より塙代与一忠純と名乗れい」
一座の者が皆ため息をした。これ程の御機嫌、これ程の名誉は先代以来無い事であった。
しかし与一は眉一つ動かさなかった。その膝の上のお墨付と、その上に重ねた絵を両手で押えて、ジッと見詰めているうちに、涙を一しずくポタリと紙の中央《まんなか》に落した。……と思ううちに又一しずく……しまいには止め度もなくバラバラと滴《したた》り落ちて、薄墨の馬の絵が見る見る散りニジンで行った。
「コレコレ。勿体ない。お墨付の上に……」
と尾藤内記が慌てて取上げようとした。
「サアサア。有難くお暇《いとま》申上げい」
と淵老人が催促したが、忠之が手をあげて制した。
「ああ……棄ておけ棄ておけ。苦しゅうない。……コレコレ小僧。見苦しいぞ……何を泣くのじゃ。まだ何ぞ欲しいのか……」
「お祖父《じい》様……」
と与一が蚊の泣くような声を洩らした。
「ナニ。お祖父様が欲しい」
与一は簡単にうなずいた。
「アハハハハハハハハハ……」
「オホホホホホホホホ……」
という笑い声が、お局《つぼね》じゅうに流れ漂うた。
「アハハハ。たわけた事を申す。そちの祖父は腹切って失せたではないか。……のう。そちが詰腹切らせたではないか」
「お祖父様にこの絵が……」
「ナニ。祖父にこの絵を見せたいと云うか」
肩を震わしてうなずいた与一は、ワッとばかりに絵の上に泣き伏した。
「コリャコリャ、勿体ない。御直筆の上に……」
と淵老人が与一を引起しかかった。
「棄ておけッ」
と忠之が突然に叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]した。何事がお気に障ったか……と思う間もなく、厚く襲《かさ》ねた座布団の上から臂を伸ばした忠之は、与一の襟元を無手と引掴《ひきつか》んだ。力任せにズルズルと引寄せて膝の上に抱え上げた。白|綸子《りんず》の両袖の間にシッカリと抱締めて、たまらなく頬ずりをした。
「……与一ッ。許せ……余が浅慮であったぞや……あったら武士を死なしたわい。許いてくれい、許いてくれい。これから祖父の代りに身共に抱かれてくれい。のう。のう……」
与一は忠之の首に縋り付いたまま思い切り声を放って泣いた。
「お祖父《じい》様、お祖父《じい》様。お祖父《じい》様ア……お祖父《じい》様ァ……お祖父《じい》様えのう……」
クシャクシャになったお墨付と馬の絵が、スルスルとお庭先へ吹き散って行った。しかし誰も拾いに行かなかった。
底本:「夢野久作全集4」ちくま文庫、筑摩書房
1992(平成4)年9月24日第1刷発行
入力:柴田卓治
校正:かとうかおり
2000年9月9日公開
2006年3月14日修正
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