部屋の片隅の洋服掛に美事なタキシードが掛けてあって、その上下にベロア帽とカンガルー皮の靴と銀頂のスネーキウッドの杖が置いてある。
私はあの玉兎女史の血でよごれた古背広を脱いで、躊躇もなく大急ぎでその服と着かえた。帽子を冠る時に女の髪の臭いがプーンとしたので、これはあの毒婦雲月斎の変装用だなと気が付いた。帽子の大きいのと靴の小さいのには閉口したが、それでもどうにか胡魔化《ごまか》した。着換えてしまってみると、右のポケットに精巧な附髭《つけひげ》と黒い鼈甲縁《べっこうぶち》の色眼鏡があるのを探り当てたので、早速それを応用した。手鏡に写してみるとどうみても一流の芸術家だ。
往来へ出ると同時に私は直ぐ横の煙草屋の飾窓《ショーウインド》の前に立った。その飾窓《ショーウインド》の横側に斜《ななめ》に嵌《は》め込んである鏡を覗いて今一度私の変装姿を印象すべく……。
ところが、その中に私は自分の姿を認める前に驚くべきものを発見してしまった。すぐ私の背後《うしろ》に立止まって凝《じ》っと覗いているサラリーマンらしい中年紳士の肩越しに、銀座の往来の断面が三分の二ほど映っている。この往来を電車と並行
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