女はホントウに忙しいのであった。
 近いうちに彼女と式を挙げる筈《はず》になっている藤沢家の養子で、前院長の甥《おい》に当る健策という医学士は、昨年の暮に、養父の玄洋《げんよう》氏が急性肺炎で死亡すると間もなく、大学の研究を中止して帰って来たのであったが、なかなかの元気者で、盛んに広告をして患者を殖やす上に、何から何まで大学式のキチョウメンな遣《や》り方をするので、その忙しさといったら無かった。その中《うち》でも薬局と会計の仕事だけは、他人に任せない家風だったので、前《ぜん》の院長の時から引き続いて、品夫がタッタ一人で引き受けているのであったが、田舎の女学校出の彼女にとっては、独逸《ドイツ》語の処方箋を読み分ける事からして容易ならぬ骨折りで、寧《むし》ろ超人間的の仕事といってもいい位であった。
 しかし、そのうちに彼女はヤット仕事を終った。新薬の広告ビラを板の上に綴じ付けて、会計簿の上にキチンと置くと、ホッと溜息をしながら眼をあげて、正面の薬戸棚の間に懸かっている大きなボンボン時計を見た。その瞬間に時計は、彼女のこの上もない親切な伴侶ででもあるかのように、十一時の第一点を打ち出した。

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