ま、イクラ汗が眼に流れ込んでも瞬き一つしない。爛々と剥き出した眼光でハッタと景清を睨み据えたまま引返して舞台に入り、
「言語道断」
 と云った。その勢いのモノスゴかったこと。
「今日のような『大仏供養』を見た事がない」
 と楽屋で老人連が口を極めて賞讃したのに対し翁はタッタ一言、
「ウフフ。面白かったのう」
 と微笑した。昌吉氏はズット離れた処で装束を脱ぎながら、
「汗が眼に這入って困りましたが、橋がかりに這入ると向うの幕の間から先生の片眼がチラリと見えました。それなりけり気が遠うなって、何もかもわからんようになりました」
 と云って皆を笑わせていた。

          ◇

 或る時中庄の只圓翁の舞台で催された月並能で、大賀小次郎という人が何かしら大※[#「やまいだれ+惡」、第3水準1−88−58]《おおべし》ものを舞った。
 その後シテの時にどこからか舞台に舞い込んで来た一匹の足長蜂が大※[#「やまいだれ+惡」、第3水準1−88−58]の面の鼻の穴から匐《は》い込んで、出口を失った苦し紛れに大賀氏の顔面をメチャメチャに刺しまわった。
 大賀氏は気が遠くなった。しかし例によって幕の間から翁が見ているのが恐ろしさに後見を呼ぶ事さえ忘れて舞い続けた。「舞台は戦場舞台は戦場」と思い直し思い直し一曲を終った。
 幕へ這入って仮面を脱ぐと大賀氏の顔が一面に腫れ上って、似ても似つかぬ顔になっているので皆驚いた。(柴藤精蔵氏談)

          ◇

 翁の門下の催能にワキをつとめた人は筆者の祖父灌園以外に船津権平氏兄弟及その令息の権平氏が居た。観世の関屋庄太郎氏も出ていた。
 そのほか他流の人で翁の門下同様の指導を受けていた人々には観世の不破国雄、山崎友来氏等がある。
 しかし翁は他流の人や囃子方、狂言方には、あまり八釜《やかま》しい指導をしなかった。翁が八釜しく云うのは何といっても喜多流の仕手方で、その中でも梅津朔造氏が一番激しくイジメられたりコキ使われたりした。
 翁は事ある毎に、
「朔造朔造」
 と呼んだ。その声がトテモ大きくて烈しいので舞台から見所まで筒抜けに聞こえた。
 その声が聞こえると朔造氏はどこへ居ても直ぐに飛んで来て、持病の喘息を咳入り咳入り翁の用を足した。翁の「朔造朔造」は催能の際の名物であり風景であった。

          ◇

 粟生弘氏は翁の門下でも古株で相当年輩の老人であったが、或る時新米の古賀得四郎氏が稽古に行くと、大先輩の粟生氏が「箙《えびら》」の切《きり》の謡を習っている。それが老巧の粟生氏の技倆を以ってしてもナカナカ翁の指南通りに出来ないので、何度も何度も遣り直しを喰《くら》っている。新米の古賀氏は何の「箙」ぐらいと思っていたのに案に相違して震え上った。「箙」なぞを滅多に習うものじゃないと思った。
 そのうちに粟生氏が「箙」の切の或る一個所をかれこれ二三十遍も遣直《やりなお》させられたと思うと、老顔に浴びるように汗の滝を流しながら、精も気根も尽き果てた体で謡本《うたいほん》の前に両手を突いて、
「今日はこれ位で、どうぞ御勘弁を……」
 と白旗を揚げた。古賀氏は今更に只圓翁の稽古腰の強いのに驚いていると翁は平然たる顔で、粟生氏を一睨して、
「そげな事じゃ不可《いか》ん。良く稽古しておきなさい」
 と誡《いま》しめてからクルリと古賀氏の方に向き直ってニコニコした。
「アンタにはあのように云わんばい」(古賀得四郎氏談)

          ◇

 芸の方も去る事ながら、癇癖と稽古の厳重さで正しく只圓翁の後を嗣いでいたのは斎田惟成氏であった。
 翁の歿後、師を喪った初心者で斎田氏の門下に馳せ参じた者も些少ではなかったが、斎田氏の八釜しさが出藍《しゅつらん》の誉《ほまれ》があったものと見えて、しまいには佐藤文次郎氏一人だけ居残るという惨況であった。
 それでも余りに斎田氏の稽古振りが酷烈なので、夫人が襖の蔭からハラハラしながら出て来て、
「そんなにお叱りになっては……」
 と諫《いさ》めにかかると斎田氏の癇癪が一層高潮した。
「女風情が稽古場に出入りするかッ」
 といった見幕で一気に撃退してしまった。
「叱られて習うたお謡じゃけに、叱って教えねば勘定が合わぬ」
 などと門弟に云い訳をする事もあった。
 その後斎田氏は勤務先の福岡裁判所から久留米に転勤すると、タッタ一人残っている門弟佐藤文次郎氏のためにワザワザ久留米から汽車で福岡まで出て来て稽古をしてやった。弟子よりも先生の方がよっぽど熱心であった。
 その稽古腰の強いこともたしかに翁の衣鉢《いはつ》を嗣《つ》いでいた。(佐藤文次郎氏談)

          ◇

 翁の門下には名物と云われていた人が三人在った。一人は間辺某という人で、梅津朔造
前へ 次へ
全36ページ中21ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング