けにほかの者が真似する。喜多流にはそげな左右はない。どこを見て来たか……云え……云いなさい……馬鹿ッ」(梅津朔造氏へ)
「扇はお前の心ぞ。武士の刀とおなじもんぞ。チャント両手で取んなさい」(筆者へ)
「イカンイカン。扇の先ばっかりチョコチョコさせるのは踊りじゃ踊りじゃ――。心が生きねば扇も生きん。お能ぞお能ぞ……踊りじゃないぞ」(筆者へ)
「俺が足の悪い真似をお前がする事は要らん。お前はお前。俺は俺じゃ。馬鹿ッ」(梅津朔造氏へ)
「人に真似されるような芸は本物じゃないぞ」(梅津利彦氏へ)
=シンミリした穏かな口調で=「謡は芸当じゃない。心持ちとか口伝とかいうて加減するのが一番の禁物じゃ。私が教えた通りに真直《まっすぐ》に謡いなさい。心持ちとか口伝とかいうものはないものと思いなさい。そうせぬと謡が下劣になる」(山本毎氏ほか地謡一同へ)
=或る天狗能楽師の悪口を云った後=「能は芝居や踊りのように上手な人間が作ったものではない。代々の名人聖人の心から生まれたものじゃ。その人達の真似をさせてもらいよるのじゃ。出来ても自慢にはならぬ。自分のたしなみだけのものじゃ。それを自慢にする奴は先祖なしに生まれた人間のような外道《げどう》じゃ。勿体ない奴じゃ」(梅津朔造氏。山本毎氏等々へ)
=或る囃子方の悪口を云って=「彼奴のような高慢な奴が鼓を打つと向うへ進まれぬ。後退《あとしざ》りしとうなる」
=光雲神社の鏡の間で囃子方へ=「馬鹿どもが。仕手がまだ来んとに調べを打って何になるか。貴様達だけで能をするならせい。この馬鹿どもが」
◇
筆者が「夜討曾我」のお稽古を受けている時であった。
後シテの御所の五郎丸|組討《くみうち》の場になるとキット翁が立上って来て、背後から組付いて肩の外《はず》し工合を実地に演《や》らせる。それから五郎丸の投げ方の稽古であるが、投げ方が悪いと翁が途方もない力でシッカと獅噛《しが》み付いて離れないので困った。
これは最初筆者が、子供ながら翁のような老人を本気に投げていいかどうか迷って躊躇したのが翁に悪印象を残したのに原因していたらしい。実に意地の悪い不愉快な爺さんだと思った。
そればかりでない。
遠慮のないところを告白すると翁は総義歯《そういれば》をしていたのであるが、その呼吸《いき》が堪らなく臭い事を発見したので最初からウンザリした。背後から筆者の肩を抱締めたまま筆者の耳の処に顔を持って来て、
「本気で、本気で投げんと不可《いか》ん。投げんと殺されるぞ。力一パイ。肩を外《はず》いて。そうそう」
というソノ息吹きの臭いこと。とても息苦しくてムカムカして来てしようがなかった。
◇
高弟梅津朔造氏の令息で、梅津昌吉という人が居た。今四谷の喜多宗家に居られる梅津兼邦君の父君であるが、翁の歿後は脇方専門のようになっていた。
元来無器用な人であったらしく、狂言から仕手方に転向した上村又次郎氏と共にいつも翁から叱られるので有名であったが、それでも屈せず撓《たゆ》まぬ勉強によって福岡地方で押しも押されもせぬ師家になられた事実が、同時に有名であった。
氏は、正直一途な性格で、あんまり翁から叱られて、真剣になり過ぎたらしく「虚眼」というのになってしまった。虚眼というのは、お能一番初まってから終るまで一時間か二時間の間、瞬きを一つもしないことで、昌吉氏が真白くクワッと眼を見開いて舞台の空間を凝視したままでいるのが、矢張り只圓翁門下一統の名物のようになっていた。
「昌吉は、あんまり一生懸命になり過ぎたんですね。あんなにしていると肝腎の眼が死んでしまいます。あんなのを虚眼と云ってね。時々ありますよ」
と現六平太先生が評された。
只圓翁は一生懸命になり過ぎる分ならイクラなり過ぎようとも、出来損っても咎《とが》めなかったので、昌吉氏の虚眼もお咎めを免れたものと思う。
◇
これに引続いた話であるが、前記河原田平助氏の櫛田神社に於ける還暦祝賀能に「大仏供養」が出た。シテの景清が梅津利彦氏で、ワキの畠山重忠が前記梅津昌吉氏であった。
その頃互いに二十代であった両氏の意気組は非常なもので稽古もずいぶん猛烈であったが、サテ能の当日になると文字通り焦げ附くような暑さであった。それに装束を着けて舞うのだから大変で、
「名乗れ名乗れと責めかけられ」
と畠山が景清を橋がかりへ追込む時の如き、二人とも満面夕立のような汗が烏帽子《えぼし》際から滴り落ちるのであった。
揚幕を背にした景清の利彦氏は真赤に上気して、血走った眼を互い違いにシカメつつ流れ込む汗に眩《くら》まされまいとしている真剣な努力が見物人によくわかった。これに対して畠山に扮した梅津昌吉氏は真青になったま
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