のお能は下司下郎だけで芝居小舎ででも演《や》んなさい。神様の前に持って来る事はならぬ」と頑張って何と云っても聞かない。仲に立った人や宮世話人を手古摺《てこず》らせた事が毎度であった。(野中到氏その他数氏談)

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 次のような例もある。
 筆者が十二三歳の折、中庄の翁の舞台で先代松本健三翁の追善能が催された。
 筆者はその時、「小袖曾我」のシテを承っていたが、筆者の装束を着けていた高弟の某氏(秘名)が筆者の小さなチンポコを指の先でチョイと弾じいた。筆者は直ぐに両手でそこを押えて、「痛い痛い」と金切声を揚げたので近まりに居た高弟諸氏がドッと笑い崩れた。
 隣の居間から見ていた翁の顔色が見る見る変った。某氏を呼付けて非常な見幕で叱責した。
「楽屋を何と心得ているか。子供とはいえシテはシテである。シテは舞台の神様で能の守《まもり》本尊である。そのシテを戯弄するような不心得の者は許さぬ。直ぐに帰れ。一刻も楽屋に居る事はならぬ。装束は俺が付ける。帰れ帰れ」
 といったような文句であったと思う。
 某氏は平あやまりに詫まった。ほかの一緒に笑った人々も代る代る翁に取做《とりな》したので結局、翁の命令でその笑った四五人の中老人ばかりが、床几に腰をかけている筆者の前にズラリと両手を支えてあやまった。
「ただ今は存じがけもない御無礼を仕りまして……今後、決して致しませぬけに、何卒御勘弁を……」
 筆者は弱った。どうしていいかわからないまま固くなって翁の顔を見た。翁はまだ眉を逆立てたまま向うから睨み付けていた。

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 こんな風だったから翁が恐れられていた事は非常なものであった。実に秋霜烈日の如き威光であった。
 能の進行中、すこし気に入らぬ事があると楽屋に端座している翁は眼を据えて、唇を一文字に閉じた怖い顔になりながらムクムクと立上って、鏡の間に来る。幕の間から顔を出して舞台を睨むと、不思議なもので誰が気付くともなく舞台が見る見る緊張して来る。
 翁が物見窓から舞台を覗いている時は、機嫌のいい時である事がその顔色で推量されたが、それでも何となく舞台が引緊まって来た。囃子方の声や拍子が真剣になり、地謡に張りが附き、シテが固くなってヒョロヒョロしたから妙であった。実に霊験アラタカといおうか現金と形容しようか。子供心にも馬鹿馬鹿しい位であった。
 出演者自身の述懐によると……翁が覗いて御座るナ……と思ったトタンに囃子方は手を忘れ、地謡は文句を飛ばし、シテは膝頭がふるえ出したという。自分の未熟を翁に塗り付ける云い草であったかも知れないが……。

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 能管の金内吉平氏は翁の生存当時の能管の中でも一番の年少者で、体格も弱少であったが、或る時、「敦盛」の男舞を吹いている最中に翁が覗いているのに気が付いたので固くなったらしく、笛がパッタリ鳴らなくなった。それでも翁が恐ろしさに、なおも一生懸命に位を取りながら吹くとイヨイヨ調子が消え消えとなる。そこで死物狂いになってスースーフウフウと音無しの笛を吹き立てたが、とうとう鳴らないまま一曲を終えて、どんなに叱られるかと思い思い楽屋へ這入ると、翁は非常な御機嫌であった。
「結構結構。きょうの意気と位取りはよかったよかった」
 と賞められた時の嬉しかったこと……初めて能管としての自信が出来たという。(金内吉平氏談)

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 前述のような数々の逸話は、翁一流の天邪鬼《あまのじゃく》の発露と解する人が在るかも知れぬが、そうばかりではないように思う。
 翁は意気組さえよければ型の出来栄えは第二第三と考えていたらしい実例がイクラでも在る。
 現在の型では肩が凝《こ》ったり、手首が曲ったり、爪先が動いたりする事を嫌うようであるが、翁の稽古の時には全身に凝っていても、又は手首なんか甚だしく曲っていても、力が這入っておりさえすれば端々の事はあまり八釜《やかま》しく云わなかったようである。
 只圓翁門下の高足、斎田惟成氏なんかの仕舞姿の写真を見ても、その凝りようはかなり甚だしいものがある。記憶に残っている地謡連中の、マチマチに凝った姿勢を見てもそうであった。凝って凝って凝り抜いて、突っ張るだけ突っ張り抜いて柔かになったのでなければ真の芸でないというのが翁の指導の根本精神である事が、大きくなるにつれてわかって来た。
 だから小器用なニヤケた型は翁の最も嫌うところで、極力罵倒しタタキ付けたものであった。そんな先輩連の真似をツイうっかりでも学ぶと、非道い眼に会わされた。

          ◇

 翁が稽古中に先輩や筆者を叱った言葉の中で記憶に残っているものを、云われた人名と一緒に左に列記してみる。アトから他人に聞いた話もある。
「お前が、そげな事をばする
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