て家に帰っても、又あくる日になると祖父母に叱られ叱られ稽古に行った。そんな次第で、やっと「小鍛冶」の上羽の謡になると型の動きが初まるので、蚊責めの難から逃れてホッとした。
 それから下曲が済んで中入前の引込みの難しかったこと。
「……静かに……静かにッ……」
 という翁の怒鳴り声が暗い舞台の中に雷のように反響して私を縮み上らした。又もワンワンと寄って来る蚊の群を怖れ怖れシテ柱をまわる時の息苦しかったこと。

          ◇

 それからやっと「小鍛冶」の後シテになって、翁と二人で台を正面へ抱え出す。その上に翁が張盤を据えて、翁は自分の膝で早笛をあしらい初める。それがトテも猛烈なものでよく膝が痛まないものだと思ううちにシテの出になる。
 その時の運びの六《むず》かしかったこと。一度出来てもその次にはダレてしまって出来ない。むろん今は出来ないどころか記憶にさえ残っていないが、しまいには翁が自分で足袋《たび》を穿《は》いて来て演《や》ってみせた。その白足袋の眼まぐるしく板に辷《すべ》ってゆく緊張した交錯の線が今でも眼にはハッキリ残っているようであるが、やはり説明も出来ず真似も出来ない。
 その序に翁は台の上からビックリする程高く宙に飛んで、板張りの上に片膝をストンと突いて見せたが、これは筆者も真似て大いに成功したらしい。
「よしよし」
 と賞められた。註をしておくが翁は滅多に芸を賞めた事がない。「まあソレ位でよかろう」とか、「それでは外のものを稽古しよう」と云われたら一生一パイの上出来と思っていなければならないので、「よしよし」と云われた人は余りいない筈である。
 さて光雲神社神事能当日の私の「小鍛冶」の成績はどうであったか。翁は黙っていたのでわからなかった。ただ祖父母は勿論、知りもしない人から色々な喰物を沢山に貰った。饅頭、煎餅、豆平糖《まめへいとう》、おはぎ、生菓子、黒砂糖飴、白紙に包んだおすし、強飯《こわめし》なぞを中位の風呂敷一パイぐらい。
 もっとも二番目の「七騎落」の遠平になった半ちゃん(故白木半次郎君)も大抵同じ位貰っていたからあんまり自慢にはならないが。

          ◇

 因《ちなみ》にこの頃聞いたところによると、その頃の筆者は恐ろしく小器用な謡で、只圓門下に似合わないコマシャクレた舞を舞っていたそうである。門弟たちが苦々しく思って、或る時翁にこの事を訴えたら、
「うむ。あれは灌園(祖父)が教えるけに、ああなるのじゃ」
 と不興げに答えたという。(宇佐元緒氏談)

          ◇

 誰であったか名前は忘れたが、「松風」の能のお稽古が願いたいと申出た事があった。翁は知らん顔をして、
「おお。稽古してやらん事もないが。先ず謡を謡うてみなさい」
 という訳で初同を謡わせられた。本人ここぞと神妙に謡ったが翁は聞き終ると、
「それ見なさい。謡さえマンゾクに謡いきらんで舞おうなぞとは以ての外……」
 とキメ付けられたので、本人はどこが悪いのかわからないまま一縮みになって引退った。(柴藤精蔵氏談)

          ◇

 梅津朔造氏の歿後は斎田惟成氏が門下を牛耳っていたが、或る時門弟を代表して翁の前に出て、
「皆今度のお能に『松風』を出して頂きたいと申しておりますが……」
 と恐る恐る伺いを立てたところ、翁は言下に頭を振った。
「まあだ『松風』はいかん。『花筐《はながたみ》』にしておきなさい」(宇佐元緒氏談)

          ◇

 当時四国で一番と呼ばれた喜多流の謡曲家池内信嘉氏が或る時、わざわざ只圓翁を尋ねて来て、何かしら一曲聞いてもらった。聞いたアトで翁はただ、
「結構なお謡い――御器用なことで――」
 とか何とか云ったきり何も云わない。それでも是非遠慮のないところを……と請益《せいえき》したら只圓翁の曰《いわ》く、
「貴方のお謡いはアンマリ拍子に合い過ぎる。それでは謡いとは云われぬ。謡いは言葉の心持ちを謡うもので拍子を謡うものでない。拍子がちゃんとわかっておって、それを通り越した自由自在な謡でなければ能の役には立たぬ」(林直規氏談)

          ◇

 翁は単に稽古のみならず、楽屋内の礼儀にまでも到れり尽せりの厳重さを恪守《かくしゅ》していた。楽屋内で冗談でも云う者があると即刻に破門しかねまじき勢いであった。神事能の時など楽屋内で神社からの振舞酒を飲んで大きな声を出す者なぞがあると、誰にも断らずにサッサと杖を突張って帰宅した。「不埒《ふらち》な奴だ。楽屋の行儀が悪うして舞台が立派に出来ると思うか。お能の精神のわからぬ奴どもの催すお能は受持てん」と云って憤慨したり、
「慰みに遣るのなら、ほかの芸を神様に献上しなさい。神様に上ぐる芸は能よりほかにない道理がわからんか。下司下郎
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