をバタバタと叩いて「ソラソラ」と云う時は軽い時で、笛の笙《しょう》歌を「オヒャラリヒウヤ[#「ヒウヤ」に傍点]」とタタキ附けるように云う時は筆者の気が抜けているのを呼び醒ますためであった。もっとも最初は、それほどこの「ヒウヤ」が怖くなかったが、そのうちに翁が笙歌を云いながら立上って来て、「ヒウヤ」と耳の傍で憎々しく云うと筆者を突飛ばしたので、それ以来この「ヒウヤ」を聞くたんびにドキンとして緊張した。

          ◇

 翁は甚だしく憤《おこ》ると、
「ホラホラホラホラッ」
 と怒鳴って立上りがけに上の総義歯《そういれば》を舞台に吹き落すことがあった。それを慌てて又、口の中へ拾い込んで立って来るので、門弟連中の笑話になっていたが、その場になるとその見幕が恐ろしいので笑いごとどころではなかった。

          ◇

 幾度も同じ舞いの順序を間違えると翁はやはり立上って来て、筆者の襟首を捉まえて舞台を引きずりまわしながら、
「ソラソラ。廻り返し、仕かけ開き……今度が左右じゃ」
 といった風に一々号令して教え込んだ。翁に亀の子のように吊り提げられながら、その通りに手足を動かして行く筆者の姿は随分珍な図であったろうと思う。翁はその序《ついで》に遺恨骨髄に徹している筆者の頭を張扇でポンとたたいて、
「……片端から忘れるなあ、アンタは……ここには何の這入っておるとな」
 と皮肉った事もあった。
 遺憾ながらその頃の筆者は頭の中に脳味噌が詰まっている事を知らなかったが、翁は知っていたと見える。

          ◇

 一番情なかったのは「小鍛冶《こかじ》」の稽古であった。
 筆者が十二歳になった春と思う。光雲《てるも》神社の神事能の初番に出るというので、祖父母、筆者と共に翁も非常な意気込であったらしいが、それだけに稽古も烈しかった。
 当日まで一箇月ばかりは毎日のように中庄の翁の舞台へ逐い遣られたものであった。途中で溝の中の蛙をイジメたり、白|蓮華《れんげ》を探したりして、道草を喰い喰い、それこそ屠所の羊の思いで翁の門を潜ると、待ち構えている翁は虎が兎を掠《かす》めるように筆者を舞台へ連れて行く。「壁に耳。岩のもの云う」と子供心にも面白くない初同が済んで、「そオれ漢王三尺のげいの剣」という序になると、翁はそれから先の上羽《あげは》前の下曲《くせ》の文句の半枚余りを「ムニャムニャムニャ」と一気に飛ばして、「思い続けて行く程に――イヨー。ホオ」とハッキリ仕手の謡を誘い出すのが通例であった。
 ところが生憎《あいにく》な事に舞台の背後が、一面の竹藪になっている。春先ではあるがダンダラ縞《じま》のモノスゴイ藪蚊《やぶか》がツーンツーンと幾匹も飛んで来て、筆者の鼻の先を遊弋《ゆうよく》する。動きの取れない筆者の手の甲や向う脛《ずね》に武者振付いて遠慮なく血を吸う。痒《かゆ》くてたまらないのでソーッと手を遣って掻こうとすると、直ぐに翁の眼がギラリと光る。
「ソラソラッ」
 と張扇が鳴り響いて謡は又も、
「そオれ漢王三尺の……」
 と逆戻りする。今度は念入りに退屈な下曲《くせ》の文句が一々伸び伸びと繰返される。藪蚊がますますワンワンと殖えて顔から首すじ、手の甲、向う脛、一面にブラ下る。痒いの何のって丸で地獄だ。たまらなくなって又掻こうとすると筆者の手が動くか動かないかに又、
「ソラソラッ」
 と来る。「そオれ漢王三尺の」と文句が逆戻りする。筆者の頬に泪《なみだ》が伝い落ちはじめる。
 何故この時に限って翁がコンナに残忍な拷問を筆者に試みたか筆者には今以てわからないが、何にしてもあんまり非道《ひど》すぎたように思う。当日の光栄ある舞台の上で、つまらない粗忽をしないように、シテの品位と気位を崩させないように特に翁が細心の注意を払ったものではないかとも思える。或はその頃筆者の背丈が急に伸びたために、急に大人並に扱い初めたのだという祖母の解釈も相当の理由があるように思えるが、それにしてもまだ甘え切っていた筆者にとっては正直のところ何等の有難味もない地獄教育であった。ただ情なくて悲しくて涙がポロポロと流れるばかりであった。

          ◇

 とにかくそんなに酷い目にあわされていながら、翁を恨む気には毛頭なれなかったから不思議であった。ただ縛られているのと同様の不自由な身体《からだ》に附け込んで、ワンワン寄って来る藪蚊の群が金輪際怨めしかった。
 だから或時筆者は稽古が済んでから藪の中へ走り込んで、思う存分タタキ散らしていたら翁が見てホホホと笑った。
「蚊という奴は憎い奴じゃのう。人間の血を吸いよるけに……」

          ◇

 そんな目に毎日毎日、会わせられるので筆者は、
「もう今日限り稽古には来ぬ」
 と思い込んで走っ
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