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 筆者の祖父は馬鹿正直者で、見栄坊で、負けん気で、誰にも頭を下げなかったが、しかし只圓翁にだけはそれこそ生命《いのち》がけで心服していた。
 神事能や翁の門下の月並能の番組が決定すると、祖父の灌園は総髪に臘虎《らっこ》帽、黄八丈に藤色の拝領羽織、鉄色献上の帯、インデン銀|煙管《ぎせる》の煙草入、白足袋に表付下駄、銀柄の舶来洋傘(筆者の父茂丸が香港から買って来たもので当時として稀有のハイカラの贅沢品)という扮装《いでたち》で、喰う米も無い(当時一升十銭時代)貧窮のただ中に大枚二円五十銭の小遣(催能の都度に祖父が費消する定額)を渫《さら》って弟子の駈り出しに出かけたので、祖母や母はかなり泣かされたものだという。
 祖父はこうして翁門下の家々をまわって番組を触れまわる。舞台の世話、装束のまわりまで「その分心得候え」を繰返して奔走しては、出会う人毎に自分が行かないと能が出来ないような事を云っていたらしい。二三十銭の会費を出し渋ったり、役不足を云ったり、稽古を厭がったりする者があると、帰って来てからプンプン憤《おこ》って、「老先生に済まん済まん」と涙を流していたという。

          ◇

 その頃博多に梅津朔造氏等の先輩で××という人が居たが、非常に器用な人で師伝を受けずに自分の工夫で舞って素人の喝采を博していた。その人が翁の稽古を肯《がえ》んぜず、色々と難癖を附けて翁を誹謗《ひぼう》したので、祖父は出会う度に喧嘩をした。
「彼奴は流儀の御恩を知らぬ奴じゃ。お能で飯を喰うて行きよるけに老先生も大目に見て御座るが、今に見よれ。罰というものはあのような奴に当るものじゃ」
 と口を極めて悪態を吐《つ》いていたが、あんまり度々云うので筆者はその科白《せりふ》を暗記してしまった。どうやら××氏には祖父の方が云い負けていたらしい悪口ぶりであった。

          ◇

 筆者の祖父は装束扱いがお得意で、楽屋の取まわしが好きだったらしい。舞台から引込んで来ると、自分の装束を脱がないまま他人の装束を着けている姿をよく見かけた。
 月並能の後、一人頭二三十銭宛切り立てて舞台で御馳走を喰うのが習慣になっていたが、御馳走といっても、味飯《かやくめし》に清汁《すまし》、煮〆程度の極めて質素なものであった。ところで、その席上で気に入らぬ事があると、祖父は只圓翁を促してサッサと席を立った。
 そのまま筆者の手を引いて帰る事もあった。
「老先生に対して済まぬという考えがない。あいつは下司《げす》下郎じゃ」
 という事をアトでよく云ったが、何の事やら誰の事やらむろんわからなかった。とにかく祖父は何もかも只圓翁を中心にして考えていたらしい。

          ◇

 そんな訳で筆者は九歳から十七歳まで十年足らずの間翁のお稽古を受けた。
 翁も亦そんな因縁からであったろう。筆者を引立てて可愛がってくれて、僅かの間にシテ、ツレ、ワキ役を通じて記憶《おぼ》え切れぬ位数多く舞台を踏ましてくれたものであったが、正直のところを云うと筆者は最初から終いまでお能というものに興味を持っていなかった。ただ子供心に他人から賞められたり、感心されたり、祖父母から、
「お能の稽古をせねば逐い出す」
 と云われるのが怖ろしさに、遊びたい一パイの放課後を不承不承に翁の処へ通っていたものであった。実に相済まぬ面目ない話であるが、実際だったから仕方がない。
 翁もこの点では気付いていたと見えて、筆者が翁の門口を這入ると、
「おお。よう来なさったよう来なさった」
 と云って喜んでくれた。別に褒美を呉れるという事もなかったが、ほかの子供達とは違った慈愛の籠った叮嚀な口調で、
「あんたは『俊成忠度』じゃったのう。よしよし。おぼえておんなさるかの……」
 といった調子で筆者の先に立って舞台に出る。
「イヨー。ホオーホオー。イヨオー」
 と一声《いっせい》の囃子をあしらい初めるのであるが、それがだんだん調子に乗って熱を持って来ると、翁の本来の地金をあらわしてトテモ猛烈な稽古になって来る。私もツイ子供ながら翁の熱心さに釣込まれて一生懸命になって来る。
「そらそら。左手左手。左手がブラブラじゃ。ちゃんと前へ出いて。肱を張って。そうそう。イヨオー。ホオーホオー。ホオ。ホオウ」
「前途程遠し。思いを雁山の夕の雲に馳す」
「そうそう。まっと長う引いて……イヨー。ホオホオ」
「いかに俊成の卿……」
「ソラソラ。ワキは其様《そげ》な処には居らん。何度云うてもわからん。コッチコッチ」
 といった塩梅で双方とも知らず知らず喧嘩腰になって来るから妙であった。

          ◇

 翁は筆者のような鼻垂小僧でも何でも、真正面から喧嘩腰になって稽古を附けるのが特徴であった。
 張扇
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