氏、山本毎氏等の先輩に当り、筆者なぞは全然顔も知らない。謡が実に立派で、蔭で聞いていると只圓翁と間違う位であった。いつも翁の能の地頭を拝命していた高足であったが、同じ翁門下の地頭格山本毎氏と争い、非常に憤激して自宅に帰り謡曲の本を全部焼棄して二度と翁に見えなかった。(宇佐元緒氏談)
詳しい事情は判明しないが、間辺氏の斯様《かよう》な態度は栗山大膳以来の片意地な黒田武士の本色であったと同時に、只圓翁門下の頑固な気風を端的に露出したものであったという。(林直規氏談)
◇
今一人は現教授佐藤文次郎氏の姻戚に当る吉本董三氏で、美髭を生やした眉の太く長い、眼と口の大きい、いかにも豪傑らしい風貌の巨漢であった。
氏は金貸を業としていたにも似合わず、翁のために献身的に働く純情家であった。何か費用の要る事があるとお能の際に、楽屋から観衆席を巡回して目星い人間を片端から引捕えて、自身の山高帽を突付けながら喚《わ》めき立てた。
「貴公は金持じゃけに五円出しなさい」
「あんたも三円ぐらい奮発しなさい」
「お前は一円に負けるけに出せ。ナニ無い。横着な事を云う。蟇口《がまぐち》をば開けて見い」
といった調子で有無を言わさず捻じ上げて行くので能率の上る事非常であったという。
しかし能の方は滅法好きな癖に天下無敵の下手であった。翁がイクラ教えてもその通りには決して出来なかったし、自分でも諦めていたと見えて思い切った蛮声を張上げて思う存分、勝手気儘な舞い方をした。長刀《なぎなた》を持たせると大喜びでノサバリまわって危険この上もないので地謡が皆中腰で謡ったという。流石《さすが》の只圓翁もこの人物には兜《かぶと》を脱いでいたらしく稽古の時にも決して叱らなかった。
のみならず同氏が地謡に座って謡いながら翁の前で行燈袴《あんどんばかま》をまくって、毛ムクジャラな尻から太股まで丸出しにして痒《かゆ》い処をバリバリと掻きまわるような事があっても翁は見ないふりをしていた。
こんな人物は多分翁の苦手であったろう。いつも翁の事を「爺が爺が」と呼棄てにしていたので、皆「吉本のキチガイ」と云っていた。実に愛すべき豪傑であった。(柴藤、宇佐両氏談)
◇
モウ一人只圓翁の苦手が居た。これは本人が現存しているから特に姓名を遠慮するが、この人もかなりの無器用で、同時に相当の天狗様であったらしい。或る時はじめて翁に謡のお稽古を願ったら、翁は一応稽古を附けて後でブッスリと云った。
「モウお前は稽古に来るには及ばぬ。私はお前の先生にはアンマリ上等過ぎる」
これは二三人から聞いた話だから事実としてここに書いておく。腹が立つと、それ位の事は云いかねない翁であったから。
ところが感心な事に、その劣等生氏は、それでも断然|屁古垂《へこた》れなかった。それ以来降っても照っても頑強に押しかけて来たので、翁もその熱心に愛《め》でたものであろう、叱り叱り稽古を付けてやったが、翁が歿前かなりの重態に陥って、稽古を休んでいる時までも毎日毎日執拗に押かけて来て、枕元で遠慮なく本を開いて謡い出したので、とうとう翁が腹を立てた。
「そう毎日来ては堪らん。大概にしなさい」
稽古腰のあれ程強い翁に白旗を上げさせたのは古往今来この人一人であろう。同氏は現在梅津正利師範の手で有伝者に取立てられて、大勢の弟子を持っていてなかなか忙しいという。
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翁は痩せた背丈の高い人であった。五尺七八寸位あったように思う。日に焼けた頑健な肉附と、どこから見ても達人らしい風格を備えたシャンとした姿勢であった。肩が張って、肋骨が出て、皺《しわ》だらけの長大な両足の甲に真白い大きな坐胝《すわりだこ》がカジリ附いていた。
冬は地味な、粗末な綿入の上に渋茶色のチャンチャンコ、茶色の小倉帯、紺飛白《こんがすり》の手縫足袋。客が来るとその上からコオリ山(灰白色の紬《つむぎ》の一種)の羽織を羽織った。
麻製渋色の胸当て(金太郎式の)は夏冬共に離さなかった。
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後頭部に心持ち黄色い白毛が半月型に残っているのを綺麗に櫛目を入れていた。顔は長大で、鼻が西洋人みたように鷲型で、白い眉が房々として、高い小鼻の左右に眼窩が深く落凹《おちくぼ》んで、心持ち内斜視の老眼が鋭く光っていた。口は大きく一文字に閉じて、凹んだ両眼と、巨大な顎と共に一歩も退かぬ一徹の気象をあらわしていた。
横頬から特に前頭部へかけて黒い斑《まだら》の長生※[#「やまいだれ+徴」、第3水準1−88−60]《ちょうせいちょう》が群着していた。又首筋へ労働者でなければ見受けられない深い皺が重なり合っていたが、これは翁自身の過激な肉体的習練の結果か、又は好物の畠イジリと網打ちの結
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