湖の岸まで来ましたが、その声はどうも湖の真中あたりから聞こえて来るようです。
 姫は直ぐにザブザブと湖の中に這入って行きましたが、水は次第に深くなって、膝《ひざ》から腰へ腰から胸へと届いて来ました。それでも構わずになおも進んで行きますと、姫はとうとうすっかり水の底へ沈んでしまいました。けれどもちっとも息苦しい事はなく、四方《あたり》は皆緑色になってしまって、その中に火の山の光りが輝き落ちて、沢山の花の形になって浮かんで、まるで花園のようになってしまいました。その中を押しわけ押しわけ行きますと、やがてその花園の真中に、お母さまが白い衣服《きもの》を着て立っておいでになりまして、姫を見ますと莞爾《にっこり》とお笑いになり、そのまま姫を軽々と抱き上げて、優しい手で髪を撫で上げながら――
「まあ、お前は今までどこへ行っていたの。これからお母さまに云わないで遊びに行ってはいけませんよ。さぞお腹が空いたでしょう。さ、お乳をお上り」
 と云いながら懐を開いて、乳房を出してお含ませになりました。
 姫は身も心もいつの間にか、赤ん坊になってしまった心地がして、何だか悲しいような嬉しいような気になりまして、涙が止め度なく流れましたが、やがてお母様の静かに御歌いになる子守歌を聞きながら、暖い乳房を含んで柔順《おとな》しく眠ってしまいました。
「牡丹《ぼたん》の花がひイらいた。
 桜の花がひイらいた。
 夢の中からひイらいた。
 可愛いお眼々がひイらいた。
   お太陽様《ひさま》がニコニコと、
   お月様がニコニコと、
   可愛いお眼元お口もと、
   一所に笑ってニコニコと。
 百合の花が閉《つぼ》んだ。
 お太陽様《ひさま》が沈んだ。
 可愛いお眼々もうとうとと、
 夢の中へと閉《つぼ》んだ」

     二十二 白木の寝台

 翌る朝まだ夜が明け切らぬうちに王宮の表門が左右に開いて二人の騎兵が駈け出しましたが、門を出ると二ツにわかれて、一ツは青眼先生の方へ駈け出し、一ツは紅木大臣の家の方に飛んで行きました。
 紅木大臣は昨日《きのう》濃紅《こべに》姫を送り出すと直ぐに門を固く鎖《とざ》して、二人の小供の死骸を石神の部屋に移して、そこで公爵夫人と一所に一日一夜《いちじつひとよ》の間泣き明かしましたが、一方濃紅姫の事も気にかかって心配で堪《たま》りませぬ。最早《もう》お后になった知
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