黒狐の皮の外套を重ね、頭に碼瑙《メノウ》の冠を戴いて、手に黄薔薇の籠を持ちました。そうして足に鹿の鞣皮《なめしがわ》の細い靴を穿《は》いて、いよいよ支度が出来上りまして、これから食堂で皆とお別れの食事を喰べて、それからお伴の女中と一所に馬車に乗って、宮中に行くばかりとなりました。
するとこの時不意に化粧部屋の扉を開いて中に駈け込んで、驚く間もなく濃紅姫を抱き締めて――
「お前はどこにも遣《や》らない。どこにも遣らない。死ぬまでこうやって抱いている」
と叫んだ人がありました。それは濃紅姫のお母様でした。
お母様は今朝《けさ》二人の小供が、世にも恐ろしい不思議な死に方をしたのを眼の前に見て、狂気のようになってしまったのでした。そうしてたった一人あとに残った濃紅姫を、どこにも遣るまいと思って、こうして抱き締めたので御座います。けれども濃紅姫はそんな事は知りませんから吃驚《びっくり》しまして――
「アレ。お母様、どう遊ばしたので御座います」
と叫ぼうとしましたが、この時遅く彼《か》の時早く、直ぐにあとから今度はお父様が駈け込んでお出でになりました。そうしてものをも云わずお母様から濃紅姫を無理に引き取って、その手をぐんぐん引きながら表へ出まして、用意の出来ている白馬三頭立ての花で飾った馬車へ乗せると、直ぐに馭者《ぎょしゃ》に向って――
「さ。一時も早く王宮へ行け。濃紅。驚く事はない。訳はあとでわかる。それより早く王宮へ行け。お前は紅木公爵の娘だ。決して意久地のない顔をするな。悲しい顔をするな」
と叫びました。
馭者は心得て鞭を挙げて敬礼をしながら、手綱《たづな》を取ってしゃくりますと、馬車は忽ち王宮の方へと走り出しました。
その時狂気のようになったお母様が駈け付けまして――
「あれ、濃紅姫。行ってはいけない」
と追い縋《すが》ろうとしました。馬車の窓からも濃紅姫が顔を出して――
「お父様。お母様」
と叫びましたが、お母様の方を紅木大臣が抱き留《と》める……濃紅姫の方は三匹の白馬に引かれて見る見るうちに遠く遠く小さくなって、間もなく馬車のあとから湧き上る砂煙のために隠されてしまいました。
紅木大臣はいつの間にか気絶している公爵夫人をあとから駈け付けた女中に介抱させて、夫人の室《へや》に連れて行かせましたが、自身は只一人|紅矢《べにや》の室《へや》に這入って行
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