うもなく、紅矢の死骸を見詰めたまま、呆然《ぼんやり》と突立っていました。そうして独り言のように――
「身体《からだ》が鉄になる
身体が鉄になる。
見た事もない。
聞いた事もない。
悪魔の為業《しわざ》か。
鬼の悪戯か。
不思議。不思議。驚いた驚いた」
と云っておりました。
その中《うち》に東の空はほのぼのと明け渡って、向うの庭の枯れ木立の間から眩しい旭《ひ》の光りが、この室《へや》の中へ一パイに映《さ》し込みました。そうして大理石のように血の気が無くなったまま立ち竦んでいる三人の顔をサッと照しました。けれども三人は瞬《またたき》一つ為《せ》ず、身動き一つ出来ず、只黒光りする鉄の死骸の、虚空を掴んだ恐ろしい姿を、穴の明く程見つめて立っていました。
するとはるか向うの丘の上に在る王宮の中から、美しい音楽の響《ひびき》が、身を切るような霜風《しもかぜ》に連れて吹き込んで来ました。それは今日宮中でこの国から選《よ》り抜いた、美しい賢い少女のお目見得をするという、世にも珍らしい儀式が初まるその前知らせでした。
その時、二人の女中が来て室《へや》の入口で叮嚀に頭を下げました。その一人は静かな低い声で――
「濃紅姫のお支度が済みました。只今食堂で御待ちかねで御座います」
と申しました。ところが今一人はこれと反対に歯の根も合わぬような震え声で――
「美……美紅姫……が……お平常着《ふだんぎ》のままで……寝台《ねだい》の中で……コ、コ、氷のように……冷たくなって……」
と云う内に床の上に座り込んでワッとばかりに泣き崩れました。
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第三篇 宝蛇
十九 黄薔薇の籠
濃紅《こべに》姫は昨夜《ゆうべ》夜通し、少しも眠る事が出来ませんでした。この頃自分のまわりに起ったいろいろの不思議な事や、恐ろしい事を考えながら、夜を明かしましたが、併《しか》しずっと奥の部屋に寝ていたのですから、その夜の中《うち》にどんな事が兄様や妹の身の上に起こったかという事は、まるで知りませんでした。そうしていよいよ夜が明けますと、お附の者に扶《たす》けられて湯に這入って、すっかり身体《からだ》を浄《きよ》めてお化粧をしました。先ず髪毛《かみのけ》には香雲木という木に咲いた花の油を注ぎ、白百合の露で顔を洗いました。身には袖の広い裾の長い白絹の着物を着て、上に
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