藻は急にむっくりはね起きて、枕元の眠り薬の瓶を取るが早いか、又|室《へや》の窓から飛び出して、裏手の廏《うまや》へ来て馬丁を呼んで「瞬」を引き出させました。そうして怪我が急に痛くなったから青眼先生の処へ行くのだと云い捨てて、ヒラリと鞍に飛び乗るが早いか、裏門から一目散に逃げ出しました。

     十六 金剛石

 美留藻は紅矢の家を逃げ出しますと、先ず一番に仕立屋に行って着物を受け取りまして、賃《だちん》には一粒の大きな金剛石《ダイヤモンド》を投《ほう》り出して来ました。
 その次には帽子屋、その次には靴屋、その次には剣屋と、それぞれ尋ねてまわって、品物を受け取って、代金には皆宝石を一粒|宛《ずつ》、髪毛《かみのけ》の中から摘《つま》み出して与えましたが、それから都の大通りを驀然《まっしぐら》に南に走りますと、暫《しばら》くして向うから美留藻の脱《ぬ》け殻《がら》のお婆さんの着物を着て、喘《あえ》ぎ喘ぎ走って来る紅矢に出会いました。すると美留藻は乱暴にも、突然《いきなり》馬を紅矢に乗りかけて、逃げる間もなく踏み蹂《にじ》り蹴散らして、大怪我をさせてしまいました。そうして全く呼吸《いき》が絶えて、うつ伏せに倒れたのを見澄まして引き返して来て、助けて行く風をして馬の上に抱《かか》え乗せて、只《と》或る森の中へ這入りました。
 そこで美留藻は自分の顔の繃帯を取って、紅矢の血まみれの顔をすっかり包んでしまいまして、それから今まで借りていた紅矢の着物を返して旧《もと》の通りに着せて、自分は新しい男の着物を着込んで、お婆さんの着物は打《う》っ捨《ちゃ》ってしまいました。
 こうしておいて、美留藻はグタリとなった紅矢を、又もや「瞬」の上に抱え乗せて、再び都へ一散に駈け上りましたが、今度は王城の西の大銀杏の樹を目標《めあて》に、青眼先生の門の前に来まして、紅矢を馬の上から突き落し、自分はキャッと叫びながら馬から飛び降りると、そのまま素早くどこかへ逃げて行ってしまいました。
 あとに残された名馬の「瞬」は畜生の事ですから何事も知っていよう筈がありませぬ。けれども今自分の背中から落っこちたものを見ますと、自分の主人の紅矢ですから、畜生ながら気にかかると見えまして、しきりに紅矢の身体《からだ》を嗅ぎながら、ぐるぐる歩きまわっていましたが、やがて首を擡《もた》げて高く悲し気に嘶《いなな》
前へ 次へ
全111ページ中71ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング