と混雑しているところでしたから、気の付く者は一人もありませんでした。
ところが似せ紅矢の美留藻も青眼先生の顔を見ると、同じように慄《ふる》え上る程驚きました。そうしていよいよあの夢が嘘でない事が解かりましたが、それと一所に青眼先生の眼付が如何《いか》にも鋭くて、もしやあの夢の中であの銀杏《いちょう》の葉を容《い》れた袋の底を鋏《はさみ》で切り破った女が自分だという事が繃帯の上からわかりはしまいかと心の中《うち》で恐れた位でした。けれども又よく考えて見ると、青眼先生がもしあの美紅姫を一眼でも見ていれば、妾《わたし》より先に姫を疑う筈なのに平気でこの家に遣って来るところを見ると、青眼先生はこの家に初めて来たので、まだ美紅姫の顔を見た事がないのかもしれぬ。それとも初めからあの夢を見ないのであろうか。イヤイヤそんな筈はない。美紅姫があの夢を見たように、この青眼先生も、それからあの白髪の乞食小僧も屹度あの夢を見たに違いない。それでなければ理屈が合わなくなる。そしていよいよ見たか見ないかは、そのうちに美紅姫とこの青眼先生と出会わして見ればわかる事だ。とにかく今のところではこの青眼先生はまだ一度も美紅姫と顔を合わせず、又自分が似せ紅矢という事も気が付かずにいるに違いないと、ほっと安心をして気を落ち付けました。
けれども青眼先生の方はそんな事は露程も気が付きませぬ。徐《しずか》に進み寄って美留藻の似せ紅矢に敬礼をしまして、それから先ず脈を見ましたが何ともないので、これならば死ぬような事はあるまいと安心をしました。ところがその次に顔の繃帯を取ろうとしますと、似せ紅矢は無暗に痛い痛いと金切声をふり絞って、どうしても繃帯に触らせませぬ。青眼先生は仕方なしに、薬籠の中から油薬を出して、繃帯一面に浸《し》ませて、こうやっておけば直《すぐ》に痛くないように繃帯が取れるであろう。それからこの薬は一滴程|嘗《な》めておくと一週間眠り続ける事が出来る薬だ。その間には大抵痛みも取れるであろうから、あとであまり痛みが烈しいならば、飲ましておくがよいと云って、小さな瓶《びん》を一ツ病人の枕元に置いて行きました。
青眼先生が帰ってから暫くの間、美留藻は痛みが取れたように見せかけてスヤスヤと眠っておりました。ところがやがて正午《ひる》頃になって、看病のために残っていた女中が一寸の間居なくなりますと、美留
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