きました。
最前から青眼先生の家へは、紅矢の家から引っ切りなしに使いが来て、紅矢はまだ来ぬかまだ来ぬかと尋ねていました。そのお使いから詳しい様子を聞いて、青眼先生はどうしたことであろうと立っても居てもおられず心配をしているところへ、不意に表の門の前で馬の嘶《いなな》き声が聞こえましたから、もしやと思って駈け出して見ますと、こは如何に、紅矢は銀杏の樹の根元に血まぶれになって倒れていて、傍には「瞬」が心配そうにうろうろしています。
青眼はこの有様を見て、腰を抜かさんばかりに驚きましたが、兎《と》も角《かく》も紅矢の家から使いに来たものに頼んで、二人で紅矢を自分の寝台《ねだい》に運び入れて、すっかり裸体《はだか》にして血を拭い清めて、傷口を調べて見ますと、案外に傷は浅くて、ここ一週間も経ったら癒《なお》りそうです。只胸と頭を非道《ひど》く打ったと見えまして、全く気絶して呼吸も通わず、脈も打たず、身体《からだ》は氷のように冷たくなって、唇は紫色になっていました。けれどもお使いの者が「瞬」に乗って帰って、取るものも取り敢えず紅矢の両親を連れて来ました時には、紅矢は青眼先生の上手な介抱と、良い薬の利き目とで呼吸《いき》を吹き返して、スヤスヤと静かに眠っていました。
これを見ると両親は、又もや一人小供が生れたように喜んで、嬉《うれ》し泣きに泣きました。そうして今更に青眼先生の介抱の上手なのに感心をしまして、紅矢のみならず私共の生命《いのち》の親と云って深く深く御礼を申しました。
十七 銅の壺
紅矢はその夜家の者に担《かつ》がれて、自分の家に連れて行かれましたが、大層熱が高くて平生《いつも》の自分の寝床に寝かされても、まだ夢中でうんうん唸《うな》っておりました。そうしてその夜は夜通し囈言《うわごと》ばかり云っていましたが、時々眼を開いて両親や妹共の顔を見るかと思うと、忽ち狂気のように騒ぎ出しまして――
「この室《へや》へ這入っちゃいけない……お父様も……お母様も妹共も……家来共も皆いけない。聞け……聞け……私は悪魔に咀《のろ》われている。悪魔の果物。悪魔の美紅。そうして悪魔の『瞬』……七ツの果物は悪魔の数《すう》であった。……私は七ツの数《すう》に咀われた。悪魔の美紅に欺された。悪魔の『瞬』に踏み蹂《にじ》られた。吁《ああ》恐ろしい。……嗚呼《ああ》苦しい。お
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