処かあらむ。たゞ後にて後悔し給はむのみと初めて吐きし雑言《ざふごん》に今は得堪へず。床の間の錫杖取る手も遅く直江志津を抜き放ち、縁側より飛び降りむとせしに、背後の庫裡の方よりあれよとばかり、手を濡らしたる奈美女走り出で、逸早《いちはや》くわれを遮り止めつ。涙を流して云ひけるやう。こは乱心し給へるか。馬十亡き後、如何にしてわれ等が命を繋《つな》ぎ候べき。御身此頃、俄かに心弱り給へるは、左様の由無き事ども思ひ続け給へる故ぞかし。人を斬り度くば峠々に出でゝ旅人をも待ち給へかし。馬十ばかりは此寺の宝物なり。われ等が為には無二の忠臣に候はずや。身に代へて斬らせ参らする事あらじと云ふうちに、馬十と怪しげなる眼交《めくば》せして左右に別れ、われ一人を方丈に残して立去りぬ。
さて其の後、二人とも何処《いづこ》にか行きけむ。声も無く、足音もきこえず。半刻《はんとき》あまりの間、寺内、森閑として物音一つせず。谷々に啼く山鶯の声のみ長閑《のどか》なり。
わが疑心又もや群り起り、嫉妬の心、火の如くなりて今は得堪へず。錫杖の仕込刀《しこみ》を左手《ゆんで》に提げて足音秘めやかに方丈を忍び出で、二人を求めて跣
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