ずらん。さらば此《この》男の血を見たらむには、わが気力も昔に帰りてむかなぞ、日毎に思ひめぐらし行くうちに此の三月の中半《なかば》の或る日の事なりき。
 頬冠りしたる彼《か》の馬十、鍬を荷《かつ》ぎてわが居る方丈の背面《うしろ》に来り、彼《か》の梅の古木の根方を丸く輪形に耕して、豆のやうなる種子を蒔き居り。その上より下肥《しもごえ》を撒きかけて土を覆ひまはるに、その臭き事限りなく、その仕事の手間取る事、何時《いつ》果つべしとも思はれず。
 われ思はず方丈の窓を引き開きて言葉鋭く、何事をするぞと問ひ詰《なじ》りしに、馬十かたの如く振り返り、愚かしき眼付にてわれを見つめつゝ、もや/\と嘲《あざ》み笑ふのみ。頓《とみ》には応《いら》へもせず。やがて不興気なる面《おも》もちにて黄色なる歯を剥き出し、低き鼻尻に皺を刻みつ。這《こ》は和蘭陀《オランダ》伝来のくれなゐ[#「くれなゐ」に傍点]の花の種子を蒔くなり。此等《これら》の秘蔵の種子《たね》にして奈美殿の此上《こよ》なく好み給ふ花なり。此《この》村の名主の家のほか他所《よそ》には絶えて在る事無し。此処《こゝ》に蒔き置けば、夏の西日を覆ひ、庭の風情
前へ 次へ
全60ページ中48ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング