手中の火打《ひうち》種子島《たねがしま》、パチリと音せしのみにて轟薬発せず。その毛だらけなる熊の如き手首、種子島を握りたるまゝ、わが切尖《きつさき》にかゝりて板の間へ落ち転《ころ》めけば、和尚悪獣の如き悲鳴を揚げ、方丈の方《かた》へ逃げ行かむとするに、彼《か》の若衆、隔ての障子を物蔭より詰めやしたりけむ。一寸も動かず。驚き周章《あわ》てゝ押破らむとする和尚の背後より跳《をど》りかゝり、左の肩より大袈裟がけに切りなぐり、板の間に引き倒ふして止刺刀《とゞめ》を刺す。
 われ、生れて初めての強敵を刺止《しと》めし事とて、ほつと一息、長き溜息しつゝ、あたり見まはす折しもあれ最前の若衆、血飛沫《ちしぶき》乱れ流れたる明障子《あかりしやうじ》を颯《さつ》と開きて走り寄り、わが腰衣《こしごろも》に縋り付きつゝ、やよ鬼三郎ぬし。わらはを見忘れ給ひしかと云ふ。驚きて振上げし血刀を控へつゝ、よく/\見れば這《こ》は如何に。故郷唐津にて三々九度の盃済ましたるまゝ閨《ねや》の中より別れ来りし彼《か》の花嫁御お奈美殿にぞありける。
 こは夢か。まぼろしか。如何にして斯《か》かる処に居給ふぞ。此の和尚は御身の如何
前へ 次へ
全60ページ中38ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング