りなり。
さて、わが身も心ゆくまで冷水を飲み傾くるに、其の美味《うま》かりし事今も忘れず。折ふし向岸の諏訪下の渡船場《わたし》より早船にて、漕ぎ渡し来る数十人の捕吏《とりて》の面々を血刀にてさし招きつゝ、悠々として大文字山に登り隠れ、彼《か》の大判小判の包みと、香煙の器具一式とを取出して身に着け、鞘を失ひし脇差を棄てゝ身軽となり、兼ねてより案内を探り置きし岨道《そばみち》伝ひに落ち行く。
かくて其夜は人里遠き山中に笹原の露を片敷きて、憐れなる初花の面影と共寐しつ。明くれば早くも肥前一円に蜘蛛手の如く張り廻されし手配りを、彼方《かなた》に隠れ、此方《こなた》に現はれ、昼|寝《い》ね、夜起きて、抜けつ潜りつ日を重ね行くうちに、いつしか思ひの外なる日田《ひた》の天領に紛れ入りしかば、よき序《ついで》なれと英彦山《ひこさん》に紛れ入り、六十六部に身を扮装《やつ》して直江志津の一刀を錫杖に仕込み、田川より遠賀《をんが》川沿ひに道を綾取《あやど》り、福丸といふ処より四里ばかり、三坂峠を越えて青柳の宿《しゆく》に出でむとす。
既に天下のお尋ね者となりし身の尋常の道筋にては逃るべくもあらず。青柳
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