、罪も無き罪人を作る閑暇《ひま》に、わが如き大悪人を見逃がしたる報いは覿面《てきめん》。今日、此のところに現はれ出でたる者ぞ。これ見よやつ」
 と叫ぶとひとしく名作、直江志津の大小の斬れ味鮮やかに、群がり立つたる槍襖《やりぶすま》を戞矢《かつし》々々と斬り払ひ、手向ふ捕手《とりて》役人を当るに任せて擲《なぐ》り斬り、或は海へ逐《お》ひ込み、又は竹|矢来《やらい》へ突込みつゝ、海水を朱《あけ》に染めて闘へば、四面数万の見物人は鯨波《げいは》を作つて動揺《どよ》めき渡る。さて逃ぐる者は逃ぐるに任せつつ、死骸狼藉たる無人の刑場を見まはし、片隅に取り残されたる手桶|柄杓《ひしやく》を取り上げ、初花の磔刑柱《はりつけばしら》の下に進み寄りて心静かに跪き礼拝しつ。
「やよ。初花どの。霊あらば聞き給へ。御身の悪念は此の片面鬼三郎が受継ぎたり。今の世の悪念は後の世の正道たるべし。痛はしき母上の御霊《みたま》と共に、心安く極楽とやらむへ行き給へ。南無幽霊頓性菩提」
 と念じ終つて柄杓の水を、血にまみれたる初花の総身に幾杯となく浴びするに、数万の群集の鬨《とき》を作つて湧き返る声、四面の山々も浮き上るばか
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