初花楼の主人|甚十郎兵衛《じんじろべゑ》と申す者。吾家《わがや》には切支丹を信ずる者一人も候はずとて、役人衆に思はしき袖の下を遣はざりしより、彼《か》の様なる意地悪き仕向けを受けたるものに候。あはれ初花太夫は母御の病気を助け度さに身を売りしものにて、この長崎にても評判の親孝行の浪人者の娘に候。之《これ》に引比べて初花楼の主人甚十郎兵衛こそ日本一の愚者にて候へ。すこしばかりの賄賂《まひなひ》を吝《を》しみし御蔭にて憐れなる初花太夫は磔刑《はりつけ》か火焙《ひあぶ》りか。音に名高き初花楼も取潰しのほか候まじ」
と声をひそめて眼をしばたゝきぬ。此の若者の言葉、生粋の長崎弁にて理解し難かりけれど、わが聞取り得たる処は、おほむね右の通りなりき。
さて其|後《のち》、程もなく初花楼の初花太夫が稲佐の浜にて磔刑《はりつけ》になるとの噂、高まりければ、流石《さすが》の鬼畜の道に陥りたるわれも、余りの事に心動きつ。半信半疑のまゝ当日の模様を見物に行くに、時は春の末つ方、夏もまだきの晴れ渡りたる空の下、燕飛び交ふ稲佐の浜より、対岸《むかうぎし》の諏訪様のほとりまで、道といふ道、窓といふ窓、屋根といふ屋
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