》く買入れぬ。こは人に知らせじと思ひし、わが人斬りの噂、次第に高まり来りて、いつしか長崎奉行、水尾甲斐守の耳に入りしと覚しく、与力、手先のわれを見送る眼付き尋常ならざるに心付き、人知れず身を晦まさむ時の用意に備へたるものにぞありける。
去る程に其の春の末つ方の事なりけり。何の故にかありけむ。此の長崎にて切支丹の御検分《おんあらため》ことのほか厳しくなり、丸山の妓楼の花魁《おいらん》衆にまで御奉行、水尾様御工夫の踏絵の御調べあるべしとなり。当日の模様、物珍らしきまゝに、われも竹矢来の外の群集に打ちまじりて見物するに、今しも丸山一の大家、初花楼《はつはなろう》の太夫職にして、初花《はつはな》といふ今年十六の全盛なる少女が、厳めしき検視の役人の前にて踏絵を踏む処なりとて人々、息も吐《つ》きあへず見守り居る体《てい》なり。
初花太夫は全盛の花魁姿。金襴、刺繍の帯、裲襠《うちかけ》、眼も眩ゆく、白く小さき素足痛々しげに荒莚《あらむしろ》を踏みて、真鍮の木履《ぼくり》に似たる踏絵の一列に近付き来りしが、小さき唇をそと噛みしめて其の前に立佇《たちと》まり、四方より輝やき集まる人々の眼を見まはし
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