捕へ来れば、前なる婦人を彼《か》の寺男、馬十に与へて弄《もてあそ》ばさせ、遂には打殺させて山々谷々の窮隈々々《くゞま/\》に埋めさせ来りしもの。五月雨《さみだれ》の生暖かき夜なんどは彼方の峯、此方《こなた》の山峡《やまかひ》より人魂の尾を引きて此《この》寺の方へ漂ひ寄り来るを物ともせぬ強気者《したゝかもの》に候ひしが、妾《わらは》を見てしより如何様にか思ひ定めけむ。
 その翌《あく》る朝早く、父上は吾が身の行末を頼む由仰せ残されて四国へ旅立ち給ひぬとて、ひたすらに打泣く妾《わらは》をいたはり止めつ。今より思へば殺し参ゐらせたらむやも計り難けれど、世知らぬ乙女心のおぞましさに其《その》時は夢更《ゆめさら》心付き候はず。これはこれ切支丹の煙草|唖妣烟《オヒエム》なり。これを吸ひて睡り給はば、旅路を行き給ふ父上の御姿見ゆべしなぞ仮りて喫はせられし香はしき煙に酔ひて眠るともなく眠り候ひしが、その間に吾身は悲しくも和尚のものと成り果てはべり。
 さる程に不思議なる哉、一度《ひとたび》、吸ひし唖妣烟《オヒエム》の酔ひ心地、その日より身に泌み渡りて片時も忘るゝ能はず。妾は父上の御事、鬼三郎ぬしの御事、又は明日《あす》をも計り知られぬ身の行末の事など、跡かたもなく忘れ果てゝ此寺に留まり、和尚の心のまゝに身を任せつゝ、世にも不思議なる年月を送り侍りぬ。
 又、彼《か》の馬十と呼べる下男は此処より十里ばかり東の方、豊前小倉城下の百姓にて、宮|角力《ずまふ》の大関を取り、無双の暴れ者なりし由。仲間の出入りにて生命《いのち》危ふかりしを万豪和尚に救はれしものに侍り。和尚の与へし切支丹煙草、唖妣烟《オヒエム》を吸ひしより以来《このかた》、魂|虚洞呂《うとろ》の如くなりて心獣の如く、行ひ白痴の如し。たゞ/\牛馬の如く和尚の命に従ひて、此寺の活計《なりはひ》、走使《はしりづか》ひなぞを一心に引受け居り候ひし者。その後、妾、此寺に来りし後は、何となく妾を慕ひ居るげにて、和尚の言葉よりも、わが云ひ付けをのみ喜び尊み、事あれば水火をも辞せざる体《てい》に侍り。まことに不憫の者と存じ候へ。
 さる程に妾、虫の知らせにかありけむ。今朝《けさ》は、いつにも似ず早く眼醒めつ。御身の此寺に近付き給へるを垣間見《かいまみ》、如何はせむと思ひ惑ひ候ひしが、所詮、人間道を外れし此身。神も仏も此世には在《ま》しまさずか
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