の生胆なりとて、約束の黄金三枚を与へしのみかは、香煙、美酒、美肴に加ふるに又も天女の如き唐美人の数人を饗応《もてな》し与へぬ。その歓待《もてなし》、昨日にも増り(以下原文十行抹殺)。
かくて年月を経《ふ》るうちに鉄の如くなりしわが腕の筋も、連日連夜の遊楽に疲れけむ。やう/\に弱り行く心地しつ。されども彼《か》の香烟の酔ひ醒めの心地狂ほしさはなか/\に切先《きつさき》の冴え昔に増《まさ》る心地して、血に餓うるとは是をや云ふらむ。毎日正午ともなれば人一人斬らでは止み難く、斬れば早や香煙に酔ひたる心地して、南蛮寺下の花畑に走り行く。心は現世の鬼畜、悪魔、外道に弥増《いやまさ》るやらむ。身は此世ならぬ極楽夢幻の楽しみ。阿羅岐《あらき》の蘇古珍《スコチン》酒、裸形《らぎやう》の妖女に溺れつくして狂乱、泥迷に昼夜を頒《わか》たねば、使ふに由なき黄金は徒らに積り積るのみ。すなはち人知れず稲佐の大文字山に登り行き、只《と》有る山蔭の大岩の下に埋め置きつ。早や数百金にもなりつらむと思ふ頃、その中より数枚を取り出し、丸山の妓楼に上り、心利きたる幇間に頼みて、彼《か》の香煙の器械一具と薬の数箱を価貴《たか》く買入れぬ。こは人に知らせじと思ひし、わが人斬りの噂、次第に高まり来りて、いつしか長崎奉行、水尾甲斐守の耳に入りしと覚しく、与力、手先のわれを見送る眼付き尋常ならざるに心付き、人知れず身を晦まさむ時の用意に備へたるものにぞありける。
去る程に其の春の末つ方の事なりけり。何の故にかありけむ。此の長崎にて切支丹の御検分《おんあらため》ことのほか厳しくなり、丸山の妓楼の花魁《おいらん》衆にまで御奉行、水尾様御工夫の踏絵の御調べあるべしとなり。当日の模様、物珍らしきまゝに、われも竹矢来の外の群集に打ちまじりて見物するに、今しも丸山一の大家、初花楼《はつはなろう》の太夫職にして、初花《はつはな》といふ今年十六の全盛なる少女が、厳めしき検視の役人の前にて踏絵を踏む処なりとて人々、息も吐《つ》きあへず見守り居る体《てい》なり。
初花太夫は全盛の花魁姿。金襴、刺繍の帯、裲襠《うちかけ》、眼も眩ゆく、白く小さき素足痛々しげに荒莚《あらむしろ》を踏みて、真鍮の木履《ぼくり》に似たる踏絵の一列に近付き来りしが、小さき唇をそと噛みしめて其の前に立佇《たちと》まり、四方より輝やき集まる人々の眼を見まはし
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