々畠に棚引く菜種、蓮花草の黄に紅に、絶間なく揚る雲雀《ひばり》の声に、行衛も知らぬ身の上を思ひ続けつゝ、幾度となく欠伸し、痴呆《うつけ》の如くよろめき行く様《さま》ひとへに吾が生胆《いきぎも》を取られたる如し。
さる程に不思議なる哉。いまだ左程に疲れもやらぬ正午下《ひるさが》りの頃ほひより足の運び俄かに重くなりて、後髪《うしろがみ》引かるゝ心地しつ。昨日吸ひたる香煙《かうえん》の芳ばしき味ひ、しきりになつかしくて堪へ難きまゝに、われにもあらず長崎の方へ踵《くびす》を返して、飛ぶが如く足を早むるに、夢うつゝに物思ひ来りし道程《みちのり》なれば、心覚え更に無し。今来し道を人に問ひ/\引返し行く程に、いつしか、あらぬ山路に迷ひ入りけむ、行けども/\人家見えず。されども香煙のなつかしさは刻々に弥増《いやまさ》り来りて今は心も狂はむばかり。胸轟き、舌打ち乾き、呼吸《いき》も絶えなむばかりなり。
折ふし薪を負ひて、さがしき岩道を降り来れる山乙女あり。われ半面を扇にて蔽ひつゝ、その乙女を呼び止めて、長崎へ行く道を問ふに、乙女は恥ぢらひつゝ笠を取り、いと懇《ねんごろ》に教へ呉れぬ。彼《か》の長崎にて見し紅化粧したる天女たちとは事変り、その物腰のあどけなさ、顔容《かほばせ》のうひ/\しさ、青葉隠れの初花よりも珍らかなり。
われ、かく思ひつゝも恭しく礼を返し、教へられし方に立去らむとせしが、又、忽ちに心変りつ。四隣《あたり》に人無きを見済まして乙女の背後より追ひ縋り、足音を聞いて振り返る処を、抜く手を見せず袈裟掛《けさが》けに斬り倒ふし、衣服を剥ぎて胸を露《あら》はし、小束《こづか》を逆手《さかで》に持ちて鳩骨《みぞおち》を切り開き、胆嚢《たんなう》と肝臓らしきものを抉《ゑぐ》り取りて乙女の前垂に包み、傍の谷川にて汚れたる手足と刀を洗ひ浄めつゝ一散に山を走り降り、胆《きも》の主《あるじ》が教へ呉れし通りに山峡の間を抜け、村里と菜種畠をよぎり行くに、やう/\にして日の暮れつ方、灯火《ともしび》美くしき長崎の町に到り着きつ。夕暗《ゆふやみ》の中に彼《か》の花畑の中の番小舎の扉を叩きぬ。
番人の瘠せ枯れたる若き唐人、驚き喜びて迎へ入るゝに、下の土室《あなぐら》にて待兼ねたる黄駝の喜びは云ふも更なり。わが携へたる生胆を一眼見るより這《こ》は珍重なり。お手柄なり。たしかに十七八歳なる乙女
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